ウェルカム・ホーム!
- 発行形態 :文庫
電子書籍 - ページ数:352ページ
- ISBN:9784344433991
- Cコード:0193
- 判型:文庫判
作品紹介
派遣切りに遭い、やむなく特養老人ホーム「まほろば園」で働く康介。
体に染みつく便臭にはまだ慣れない。
それに認知症の人や言葉が不明瞭な人相手の仕事は毎日なぞなぞを出されているかのようだ。
けれど僅かなヒントからその謎が解けた時、康介は仕事が少し好きになり……。
介護する人される人、それぞれの声なき声を掬すくうあたたかな連作短編集。
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第1章の冒頭をちょい見せ
ああ、また始まるのか。
職員用入り口の扉の前に立って、大森康介は大きなため息をつく。
今年に入ってから、世間では大きな出来事が続いていた。男性アイドルグループ「嵐」の活動休止発表、世界のイチローの引退、そして新しい元号が「令和」と発表されるなど──。
時代は動き、季節も春を迎えたというのに、康介の心は弾まない。出勤するためこの扉を開けようとするたび、いつも気持ちが沈んでしまう。
勤めるようになってすぐに、なぜどの扉もこんなに重くて堅いんですかと先輩職員に尋ねたことがある。先輩はあっさり答えた。
「離設予防だよ」
なるほど、そういうことか。
離設。すなわち、脱走。
ここでは、扉もエレベータも、利用するにはテンキーで暗証番号を入力しなければならない仕組みになっている。それが、中の人間が勝手に出ていかないようにするためのものだとは分かっていた。
だが、扉までこんなに重くしなければならないとは。
要するに、ここはそういうところなのだ。
「おはようございまーす」
夜警のおじさんは「あ、ああ、おはよう」と慌てたように応えてくる。口元によだれが垂れているのは見て見ぬ振りをして事務室に入った。
タイムカードを押す時に、レコーダのすぐ上に貼られた園のモットーが否応なしに目に飛び込んでくる。
〈自分らしさを生かした生活を支援します。利用者様の幸せが私たちの喜び〉
福祉を生涯の仕事と決めて50余年、有沢雄一郎施設長自らがしたためたものだという。
康介が勤める特別養護老人ホーム「まほろば園」は、100人以上の入居者を抱える大規模施設で、介護保険制度の実施前からホームを運営している社会福祉法人が母体だった。
最近の特養は、個室を基本に入居者を少人数のグループに分けて家庭的なサービスを提供する〈ユニットケア〉を謳う施設が主流だが、大部屋──正確には多床室という──を中心としたいわゆる〈従来型〉の施設もまだあり、「まほろば園」はその一つだ。
それでも昨年全面改装を行い、スタッフを一気に増員したらしい。資格を取ったばかりで実務経験ゼロの康介が採用されたのもそのおかげだろう。
改装されたばかりでピカピカの廊下を通って更衣室へ。人目につかないところには金をかけなかったらしく、狭いスペースで身を縮こまらせながら着替える。
フリーサイズしかないポロシャツは、身長174センチ・体重75キロの康介には少し小さいが、支給されているだけでも有り難いと思わなければいけない。
バックプリントされた「smile for you」とは一体誰に向けた言葉かと毎回疑問に思いながらも、ユニフォームに着替えたところでようやく体は戦闘態勢に入った。
「おはよう! 康介くん302お願いね!」
階段を上がってフロアに出た途端、先輩職員の浦島鈴子さんの声が飛んできた。
「はい!」
康介は小走りで302号室に向かった。早番の場合は、いきなり「起床介助」から一日が始まるのだ。
「皆さん、おはようございます!」
返事がいいのと声が大きいことだけ、と言われる取り柄を大いに生かして挨拶をするが、返ってくる声はほとんどない。
「今日もよろしくお願いしまーす。ベッド上げますよ~、いいですかぁ」
302号室の入居者を順番に起こして回った。まだ半分寝ているような彼らの洗顔を手伝い、続いて食堂へ誘導する。その後も配膳、朝食介助、服薬介助、歯磨き、と休む間はない。
食事の片づけを終えると、ようやく座ることができた。朝礼ミーティングで夜勤の職員からの申し送りを受ける。
「301の加藤さん、40分ほどかかって食べてますが、むせが3回、痰も多いようです」
「303の佐野さん、嚥下の力が落ちてきたので食べる時、体を45度起こすようにしてください」
康介が働く「3階」は、認知症などの重症の入居者がほとんどだった。
認知症については康介も資格をとる過程で一通り学び、実務研修もしたのだが、実際のところはやはり勤めてみなければ分からない。
たとえば、302号室の神崎登志子さん・81歳との会話はこんな具合。
「登志子さん、トイレ行きましょう」
「あんたが行けばいい」
「さ、食べましょうね」
「あんたが食べればいい」
当惑を超えて、脱力。ひたすら脱力。
かと思えば、305号室の金井惣之助さん・78歳が、廊下にうつ伏せになり、這うようにして前に進んでいるのに出くわしたことがあった。当然康介は「何やってんすか惣之助さん」と起こそうとしたのだが、通りかかった先輩職員から「放っておけ」と言われて驚いた。
「下手に歩かれて転ばれるよりいいから」
そういうものかと感心する一方で、本当にそれでいいのか、とも思う。
はたまた同じく305号室の當間英輔さん・68歳は、認知症ではなく、脳梗塞の後遺症で右半身と口に麻痺が残っていた。手間はさほどかからないのだが、麻痺のせいで何を言っているかがよく聞き取れない。
適当に返事をしていてもさして問題はなかったが、食事の後などにたまに口にする「アアイオウエ」という暗号のような言葉が気になったりする。
他にも、認知症に加えて弱視である江藤ユキさん・85歳からは20分に1回はトイレ誘導のコールで呼ばれ、頸椎損傷で下半身麻痺の井村克夫さん・65歳からはトランスファー(車椅子への移乗)の度に「お前じゃダメだ、他の職員と代われ」と怒鳴られる。
そんな手のかかる入居者ばかりを25人、日勤でも3人の職員で見なければいけないのだから毎日が戦場のようだった。
ミーティングを終えたら、息をつく間もないまま「おはようケア」が待っている。
「おはようケア」とはずいぶん聞こえの良いネーミングをしたものだと感心するが、要はオムツ交換の時間だ。
「まほろば園」では、1日に5回、オムツ交換の時間がある。施設紹介のパンフレットの「オムツ交換」の項には「その他随時」とあるが、基本は定時だ。
1日5回というのが入居者にとって多いのか少ないのかは分からない。しかし、少なくとも康介にとっては「多すぎる」ほどだ。トイレに行ける人を誘導している際に「失敗」してしまった場合の交換も含めたら、一日中オムツ交換をしている感覚に陥ることさえあった。
「慣れないのは、臭いなんすよ」
その日の帰り、康介は、同じ早番だった鈴子先輩と、5時からやっている駅前の居酒屋に寄っていた。
……続きは本書でお楽しみください!