25日夜、東京都××区××に住む男性が警察に、人を殺したとして出頭しました。
警察によりますと、25日午後8時ごろ、東京都××区××市にある警察署に男性が出頭し、 「廃ホテルの屋上で揉み合いになり、相手が転落死してしまった」と話したということです。
警察は、統一連呼さんを死なせたとして、出頭した統一連呼容疑者を傷害致死の容疑で逮捕し、事情聴取をしています。同姓同名の二人のあいだには何か事情があったものとして、慎重に捜査しているとのことです。
雲一つない青空にサッカーボールが弧を描き、落下してくる。グラウンドに掛け声が飛んだ。
統一連呼は背中と両腕を巧く使って敵MFを押さえ込み、ポジションを確保した。相手も負けじと押し返してくるが、決して譲らなかった。
連呼は足首を柔らかく保ち、ボールをトラップした。足元にぴったりおさめるのではなく、ワンタッチで後方に流れるようにコントロールし、同時に身を反転させて敵MFを置き去りにした。出遅れた相手がユニフォームを引っ張るも、腕で振りほどき、ドリブルに入る。
敵DFが即座にカバーに入り、前に立ちはだかった。瞳の隅に味方FWの姿が映る。ディフェンスラインの裏側に飛び出そうとしている。
連呼はドリブルのスピードを緩め、ボールを跨ぐシザースフェイントで幻惑し、重心を大きく左へ移した。相手が進路を塞ぐように足を踏み出した瞬間、反対側に切り返す。マークが外れると同時にスルーパスを出した。乱れたディフェンスラインの裏側へ通す、必殺のパス──。
絶妙のタイミングで飛び出した味方FWのスピードを殺さず、敵GKも間に合わないスペースへのパスだ。GKと一対一になった味方FWは、相手の股下を抜くシュートを放った。ボールはゴールネットに突き刺さった。
「よっしゃ!」
味方FWが両手でガッツポーズし、雄叫びを上げた。練習でも気合い充分だ。
「ナイッシュ!」
連呼は味方FWに駆け寄り、手のひらを掲げた。ハイタッチすると、小気味いい破裂音が青空に響いた。
「ナイスパス!」
「おう!」
仲間の祝福を受け、自陣へ戻る。
練習試合が再開されると、連呼はボールを保持する敵MFにプレッシャーをかけた。相手がパスで逃げる。
相手はパスワークで崩しにかかった。だが、味方DFが奪取し、MFに繋ぐ。
連呼は一気に駆け上がった。カウンターだ。相手が戻り切る前に攻め込む。
「ヘイ!」
手を上げながらパスを要求する。
味方MFがちらっと連呼を見た。敵DFが距離を詰め、マークについた。
連呼は外に開くフェイントをかけ、中央に切り込んだ。敵DFのマークが外れる。その瞬間にパスが来た。パスを受け、ドリブルする。勢いに圧倒されて真正面の敵DFが棒立ちになる。
連呼はスパイクの裏でボールを転がし、フェイントをかけた。右、左、右──。
DFの脚が開いた隙にボールを股に通した。屈辱的な股抜き──。抜き去る瞬間、相手がやられたという顔をしたのが見えた。
GKと一対一になった。シュートコースを狭めるために距離を詰めてくる。
連呼はシュートモーションを見せた。GKがそれに反応して動きを止める。その刹那、ドリブルでGKを抜き去った。
後はゴールに蹴り込むだけ──。
ボールを思いきりネットに突き刺そうと脚を振り上げたとき、猛スピードで戻ってきた敵DFが必死のスライディングをしてきた。シュートコースをブロックする。
連呼にはその動きがスローモーションのように見えた。
シュートを打たず、切り返した。敵のスライディングは目の前を滑っていった。
眼前にゴールが広がっている。
「あーっと、見事なフェイント! まるでメッシ! 統一連呼、無人のゴールに──」連呼は自分で実況しながら軽くボールを蹴り、余裕のゴールを決めた。「流し込む!」
振り返り、両手を掲げる。
「統一連呼、ハットトリック!」
自画自賛して盛り上がる。
フェイントにしてやられた敵DFがグラウンドを叩き、「クッソ!」と悔しがる。
朝練はレギュラーチームの大勝で終わった。
連呼はチームメイトと共に更衣室へ向かった。ユニフォームを脱ぎながら、練習試合のプレイ内容で盛り上がる。
「連呼、マジ、天才だわ」
チームメイトがスポーツドリンクを飲みながら言った。
連呼はタオルで上半身の汗を拭った。試合の余韻を残し、全身から心地よい熱が立ち昇っている。
「プロを目指してるからな」連呼はそう言ってから、悔しさを噛み殺した。「そのためにも全国で結果出したかったな……」
別のチームメイトが同調した。
「あと一歩で涙呑んだもんなあ、俺たち」
冬の選手権は全国出場が叶わず、後は引退を待つだけだ。悔しさを忘れられず、大会前と同じ量の練習をしている。
「連呼はスポーツ推薦、話、来てんだろ」
「監督からそれとなく誘われてる」
名門大学だ。入学できれば──そして信頼できる監督の下で成長すれば、プロへの道が開ける。
「連呼だけだもんなあ、可能性があんの」
「お前は進路どうすんの?」
「親戚のおじさんがやってる町工場に就職」
「マジかあ……」
胸に一抹の寂しさが兆した。一緒にプロになり、名コンビとして名を馳せよう、と約束していたのだ。だが、高校三年になり、卒業も近づいてくると、嫌でも現実と向き合わねばならない。
彼は連呼の肩を叩き、そのままぐっと掴んだ。
「お前は俺らの希望の星なんだ。俺らはさ、夢を諦めなきゃなんなくなったけど、お前は夢を叶えてくれよ」
普段の軽いノリとは打って変わって、真剣な眼差しで言われ、胸が詰まった。
「……任せろ」連呼は彼の二の腕を叩き返した。「本田圭佑とか中田英寿みたいに、名前を聞いただけで誰もが分かるように、世界で活躍してやる」
「絶対諦めんなよ。自分を信じろ」
「俺の名前を日本じゅうに知らしめてやるさ。統一連呼って言えば、日本のスーパースター、みたいな──」
日本代表として大活躍し、新聞の一面に自分の名前が載るのが夢だ。
大舞台の決定機でスタジアムのサポーターが総立ちになり、『統一!』と叫び、興奮する。テレビの実況も名前を呼ぶ。期待に応えるドリブルからのスルーパス。あるいはミドルシュート。そして──ゴールが決まり、大逆転の立役者になる。
数え切れないほど妄想した光景だ。実現への第一歩は、名門大学のスポーツ推薦からはじまる。
システマティックな現代サッカーでは過去の遺物と化した〝ファンタジスタ〟──文字どおり、創造的なプレイで観客を魅了する選手──を蘇らせたい、という夢がある。往年の名選手、イタリア代表のロベルト・バッジョのようなファンタジスタに憧れる。
「ワールドカップ、楽しみだよな」
連呼はチームメイトたちに言った。
来年六月に開催される二〇一四年ブラジルワールドカップだ。日本は今年六月に、五大会連続五回目のワールドカップ本選出場を決めている。
三年前の二〇一〇年南アフリカワールドカップのグループリーグで見せた日本のサッカーは──特に三戦目のデンマーク戦は、ファンタスティックだった。中学時代、夜中に一人で興奮して大声を上げたことを覚えている。
「対戦国はどこになるかな」チームメイトの一人が言った。「抽選、待ち遠しいな」
「初戦が鍵だな」
本選のメンバーは誰が選ばれるのか、どういうシステムが最適なのか、出場国の戦力分析などで仲間たちと盛り上がった。
連呼は制服に着替えると、教室へ向かった。登校してきた生徒たちと共に階段を上がる。
三年二組の教室に入ると、部活の更衣室とは違って誰もが〝事件〟の話をしていた。中央で固まっている女子グループも、片隅で机を挟んで向き合っている二人組も、黒板の前に集まっている男子たちも。
隣町で起きた猟奇的な殺人事件だから、気になるのは当然だ。
連呼は席に着き、鞄を机の上に放った。友人二人がすぐに駆け寄ってくる。
「毎日すっげえニュースだよな」
野球部の友人が開口一番、言った。坊主頭で、眉が薄く、ジャガイモっぽい顔立ちだ。
連呼は鞄から教科書を出し、机の中に移し替えながら答えた。
「『愛美ちゃん殺害事件』だろ」
二週間近く前に発生した惨殺事件のことだ。テレビでも連日報道されている。公園で遊んでいた六歳の女の子が公衆トイレでめった刺しにされた。衣服に乱れがあったという。性的暴行を加えようとして抵抗され、殺したのだろうと言われている。
「そうそう」野球部の友人がうなずく。「二週間近く経ってんのにまだ捕まんねえし、警察は無能かよって」
「なあ、連呼は知ってっか?」天然パーマの友人が顔を寄せ、声を潜めた。まるで自分が体験した怪談でも囁き聞かせるように。「被害者の女の子がどんな状態だったか」
「どんなって──二十八カ所も刺されてたんだから、そりゃ、ひどい状態だったんじゃないの?」
「想像以上のひどさだぞ。首もめちゃくちゃ刺されて、皮一枚で繋がってるありさまだったって」
首が皮一枚で──。
想像したとたん、おぞけが這い上がってきた。生々しい血の臭いを嗅いだ気さえした。
「それ、マジ?」
連呼は眉を顰めながら訊き返した。
「週刊誌に載ってた」
天然パーマの友人が答えると、野球部の友人が意外そうな顔をした。
「週刊誌なんて読んでんの? オヤジ臭くね?」
「いやいや、そんなんじゃなくってさ。SNSで記事の画像が貼られてて、共有で回ってきて……。ヤバイよ」
連呼はスマートフォンを取り出し、興味本位でツイッターを開いた。検索すると、八千五百リツイートもされているツイートがヒットした。
『今日発売の「週刊真実」の記事、衝撃! 「愛美ちゃん殺害事件」の詳細が載ってる。胸糞。首の皮一枚って、マジかよ。早く逮捕して八つ裂きにしろよ』
ツイートには記事の画像が添付されており、ページの半分以上が読めるようになっている。
『東京都××区××町の公園の公衆トイレで津田愛美ちゃんの遺体が発見されてから十二日。親族によって通夜が営まれた。
愛美ちゃんは、卑劣で残忍な犯人によってわずか六年の短い人生を絶たれた。公衆トイレで二十八カ所もナイフでめった刺しにされ、遺体となって発見されたのである。
捜査官によると、愛美ちゃんは首の皮一枚で繋がっているような惨状で、あまりに凄惨な光景に言葉を失ったという。聞き込みの最中に涙をこらえきれなくなる捜査官もいたそうだ』
ネット上では猟奇殺人犯への怒りが噴出し、『#愛美ちゃん殺害事件』『#犯人を捜せ』『#絶対死刑』というタグで情報提供や推測、義憤のツイートがあふれていた。
「これって猟奇殺人ってやつだよな」野球部の友人が身震いするように言った。「ヤバイよな、マジで」
連呼はスマートフォンを置き、言った。
「六歳の女の子が恨みを買ったりするわけないし、怨恨じゃないのに、これだろ?」
「犯人はサイコパスだろ、サイコパス」
「どんな奴なんだろうな、犯人」
「どこのニュースもトップで報じてるよな」
「ワイドショーも凄いぞ」
「ワイドショーは観たことないな。ってか、昼間だろ、やってんの。わざわざ録画してんの?」
「俺じゃないって。母さんが録画して毎日夜に観るんだよ。晩飯のときに。だから嫌でも詳しくなっちゃって」
「マジ? どんな話してた?」
友人二人が興味津々の顔を向けてくる。
連呼は頭にこびりついているワイドショーの映像を思い返した。
陰惨さを強調するBGMがバックに流れる中、再現VTRや、近所の住民へのインタビュー、専門家による犯人像の分析など、興味を引く構成だった。毎日のようにいくつものワイドショーを観ていると、同じような内容を繰り返していることが分かる。だが、何か新情報があるように匂わせるので、結局、両親と共に最後まで観てしまう。
サスペンスドラマでも観ている感覚で推理するのはいつも母だ。父は相槌を打ちながら聞き役に回る。
「ワイドショーだと、犯人像を追ってたかな。近所に聞き込みをしたり……」
社会学者の中年女性は、テレビで『現実社会で女性と関わることができない中年の小児性愛者の仕業だと思う』と犯人像を分析していた。
「新情報あった?」野球部の友人が訊いた。
「怪しいおっさんが目撃されてるってさ」
「怪しい?」
「近所の子供が声をかけられたんだってさ。女の子が『誰々さんの家知ってる?』って訊かれて、『知らない』って答えたら、『捜すの手伝ってくれたらお菓子をあげるよ』って言われたとか」
「うわあ、絶対そいつじゃん。何で逮捕されねえんだよ。そこまで分かってんならさ、似顔絵を作って全国に指名手配しろよ」
天然パーマの友人が「マジでキレてんじゃん」と笑った。
野球部の友人は唇をひん曲げた。
「当たり前だろ。七歳の妹いるしさ、心配だよ。最近は母ちゃんが送り迎えしてる。公園で遊ぶのも禁止だし、今は俺の携帯ゲーム機貸してるわ」
「公園も禁止? 親がついてたら別に大丈夫じゃね?」
「相手は刃物持った猟奇殺人鬼だぞ。切り裂きジャックとか、レクター博士みたいなヤバイ奴」
「レクター博士はフィクションだろ」
「揚げ足取んなよ。とにかく、そんだけヤバイ奴ってこと。そんな奴が野放しになってんだぞ。目をつけた女の子を手に入れるためなら、邪魔な親の一人や二人、殺すかもしれねえじゃん。母ちゃんも外に出るのが怖いってさ」
「でも、お前の妹は大丈夫じゃね?」
「何でだよ?」
「だって──」天然パーマの友人は思わせぶりに間を置いた。「可愛くねえじゃん」
「おい!」野球部の友人は相手の胸を突き飛ばし、声を荒らげた。「ふざけんなよ、ぶっ殺すぞ!」
天然パーマの友人はあっけらかんと笑っている。
二人が本気ではないことが分かっていたので、連呼は釣られて笑った。場の空気が弛緩した。
「──でもさ」連呼は言った。「目撃情報があるのにまだ捕まってないってことは、近所に住んでないんだろうな。そう考えたら、今どこに潜んでいてもおかしくないよな。この町かもしれないし……」
黒板の前のグループの一人がスマートフォン片手に、「なあなあ!」とクラス全員に呼びかけた。「今から遺族が記者会見するってよ!」
教室がざわついた。周りから囁き交わす声が聞こえてくる。
「観たら泣きそう」
「何でマスコミは遺族を引っ張り出すの?」
「でも気になるじゃん」
「子供を殺されたばっかりなんだし、まともに喋れないんじゃない?」
数人がスマートフォン片手に中継を観はじめた。
連呼は友人たちとスマートフォンを囲んだ。
パイプ椅子には愛美ちゃんの両親が座っていた。右側には胸に弁護士バッジをつけた中年男性が渋面で座っている。長テーブルにはマイクが何本も並んでおり、女の子が笑顔で写っている額縁入りの写真が立てられている。
司会者による進行があり、父親が沈鬱な面持ちで記者たちに挨拶した。感情が死んだような声で語りはじめる。
「娘が殺され、私たちは地獄のような苦しみと悲しみに打ちひしがれています。朝、仕事に行く私を元気よく見送ってくれた姿が最後になりました。なぜこんなことになったのか……」
父親が嗚咽をこらえるように下唇を噛み、黙り込んだ。母親はハンカチで目元を拭っている。
「……私たち家族は、大事な娘と最後の別れもできていません。遺体を〝整える〟のも困難で、棺を開けないままの葬儀だったからです」
重苦しい沈黙が降りてくる。誰もが女の子の惨状を思い浮かべただろう。
母親が濡れた声で語りはじめた。
「愛美が生まれたときの体重は三千百五十グラムでした。未熟児だった長女と違って、手に余るほど元気でした。全身で泣いて、暴れて──。手がかかったことを昨日の出来事のように覚えています。愛美は好き嫌いもなく、すくすく育ちました。体重が増えてくると、ねだられる抱っこも大変で──」
母親は顔をくしゃっと歪めた。
「こんなことになるなら、もっと抱いてやれば……」
震える声は次第に弱々しくなっていき、最後まで言い終える前に途絶えた。
再び沈黙が降りてくる。それを破ったのは父親だった。
「犯人が──憎いです」絞り出すような声だった。「この手で同じようにして殺してやりたい……」
強烈な言葉に記者会見場がどよめいた。
母親は父親に何かを言おうと口を開いた。だが、結局何も言わず、視線を机に落とした。
「犯人を捕まえてください!」父親がわめき立てた。「犯人を捕まえて、死刑にしてください!」
父親が取り乱し、騒然としたまま記者会見は終わった。
連呼は詰まっていた息を吐いた。喉に圧迫感があり、胃も重かった。
遺族の悲嘆が纏わりついてくるようだった。
担任の先生がやって来るまでは、友達同士で「早く捕まえろよな」「遺族の言うように同じ目に遭わせろよ」と犯人への憎しみを吐き出し合った。
だが、さらに二週間が経っても犯人は逮捕されなかった。大きな進展がなくても報道がトーンダウンすることはなく、連日何かしらの情報や推測と共に報じられていた。
ネットでも犯人への怒りがあふれていた。蓋をした巨大な鍋から熱湯がぼこぼこと噴きこぼれるように。
『××町の公園の公衆トイレで津田愛美ちゃんを殺害したとして、S署は28日、殺人容疑で高校1年生の少年(16)を逮捕した。少年は「ナイフで刺して殺したことは間違いありません」と容疑を認めているという』
テレビの画面では、スペインリーグの『リーガ・エスパニョーラ』の試合が流れていた。
「よし、行け!」
深夜、統一連呼は贔屓のバルセロナを応援しながら、自室で盛り上がっていた。
時代と共にサッカーの放送は地上波から衛星放送に移っている。将来的にはネット配信になるのでは、という声もあった。だが、パソコン画面だと迫力に欠けるから、試合はテレビで観たいと思う。
選手のスーパープレイのたび、連呼は興奮した。
中学生のころは、クライフターン、ヒールリフト、エラシコ、マルセイユルーレットなど、スーパースターの必殺技のような大技ばかり練習し、試合で挑戦しては監督に怒られたものだ。
実力をつけ、不動の地位を確立すれば、遊び心のあるプレイも観客を魅了する武器になる。
いつか、大舞台で大勢の度肝を抜いてみたい。
目を閉じ、イメージトレーニングという名の妄想に浸った。日の丸を背負ったワールドカップの大一番。相手は強豪ブラジル。ロナウジーニョやネイマールのようなプレイで相手国の観客にも感嘆のため息をつかせる。そして──ゴール!
妄想の中では常に大歓声が聞こえていた。
『統一、統一!』
『連呼、連呼!』
大舞台での活躍で全世界に『統一連呼』の名前が知れ渡り、ヨーロッパ四大リーグの名門クラブチームからオファーが殺到するシンデレラストーリー。
妄想の世界から帰還すると、スマートフォンでニュースサイトにアクセスした。スポーツの項目を見る。欧州サッカーの速報や、試合の記事が上がっている。
読んで他の試合の動向を知ってから、ブラウザバックした。国内ニュースの項目が目に入る。
『「愛美ちゃん殺害事件」で浮き彫りになる少年法の限界』
サッカーの興奮に冷や水を浴びせられるようなニュースだ。母がワイドショーを好んで観るから、嫌でも目に入る。クラスメイトと話題にするうち、普段から記事が気になるようになった。
不快になりそうだから読まずにおこうと思ったものの、好奇心に負けて記事を開いてしまった。
目を通してみる。
六歳の愛美ちゃんがめった刺しにされた経緯に触れた後、少年犯罪の問題点について語っている。
家庭裁判所は、十四歳以上で罪を犯した犯罪少年のうち、死刑、懲役、または禁錮に当たる罪の事件について、刑事処分が相当と認めるときは、検察官に送致することになっている。それを逆送と呼ぶ。
検察官に逆送された犯罪少年は、起訴されると、家庭裁判所ではなく、成人と同じ刑事裁判で裁かれる。
また、十六歳以上の少年が被害者を死亡させた場合は、原則として逆送される。
『愛美ちゃん殺害事件』の容疑者である少年Aは、十六歳だ。精神疾患などがないかぎり、逆送され、成人として裁かれるであろう。だが、全てにおいて成人として扱われるわけではない。
少年の実名報道を禁じた少年法第六十一条が立ちはだかり、本名も明かされず、守られている。少年法は、少年の更生の機会を守ることが趣旨ではあるが、残虐な殺人事件を起こした少年が世に戻った後、反省も更生もなく、また非道な犯罪に手を染めているケースもあり、そこに少年法の限界がある。
少年A──。
少年B──。
少年C──。
実に記号的な響きではないか。
窃盗を犯した少年も、強制わいせつを犯した少年も、子供を連れ回した少年も、殺人を犯した少年も、全員が全員、報道では少年Aと呼ばれる。複数犯なら、B、C、D──とアルファベットが増えていく。
逮捕された犯人が少年だと分かった瞬間から、犯人の〝顔〟はなくなり、単なる記号と化してしまう。世間の記憶に残るのは、残虐な犯行内容だけで、犯人は忘却の彼方に──いや、名前がないのだからそもそも最初から記憶すらされない。
事件の風化を手助けする法律に何の意味があるのか。
一方、被害者の実名や個人情報は、遺族がどれほど傷つこうが、懇願しようが、『実名報道でなければ、その事件が真実かどうか(本当に起きたかどうか)保証できない』『公共性と公益性のため』として実名を出している。
それならば、犯人の実名こそ公表しなければいけないのではないか。
世の人々の大半は、実名報道を求めている。
たとえば、コンビニや飲食店で〝悪ふざけ〟動画を撮影した中高生や、SNSで差別的な発言をした中高生が炎上したとき、アカウントの過去の発言から個人が特定されるケースは枚挙にいとまがない。本名どころか、学校名、バイト先、時には自宅の住所まで突き止められている。
個人情報は恐るべき速さで拡散される。誰もが実名を明らかにすべきだと考えている証左である。
目を覆うばかりの凶悪な少年犯罪が相次ぐ昨今、加害者を守る少年法第六十一条は時代遅れと言わざるを得ない。法もアップデートが必要であろう。
市民団体により、加害者少年の実名公表を求める署名運動が行われ、現在、一万二千人が署名しているという。
少年法は変わらなくてはいけない。
文章から怒りが滲み出ている。
サッカーの興奮は鎮火してしまったものの、クラスで事件がまた話題になったときに話す材料が手に入った。サッカーの試合同様、自分が主役になることが好きだ。
連呼は部屋の電気を消すと、そのままベッドに入った。
「いらっしゃいませー」
自動ドアが開くたび、統一連呼は声を上げた。だが、客からは軽い会釈すら返ってこない。コンビニにやって来る者たちは一様に無表情だ。店員の挨拶などは、入店を知らせる出入り口のベル程度に思われているのだろう。
自分が無感情な機械になった気がしてくる。バイト仲間がいなければ、精神的に病んでいたかもしれない。
客がいなくなると、バイト仲間の彼女が話しかけてきた。
「連呼君、昨日のドラマ、観た?」
「何のドラマですか?」
「九時からの『私を愛して』」
観ておけば共通の話題になったのに──。
「ああ……」連呼は残念に思いながら答えた。「その時間は裏のバラエティを観てました。ゲストのお笑い芸人が好きで」
「お笑いが好きなの?」
「結構、観ます。人生、少しくらい笑いたいじゃないっすか」
熱中できる趣味らしい趣味もなく、空虚な毎日を送っている。バイトにもやり甲斐はなく、定時制高校に通いながらアパートの家賃を含めた生活費を稼ぐために働いているだけだ。
気分が沈みそうになったので、連呼は話題を変えた。
「音楽なんかは好きですか?」
彼女は「うーん……」と考える仕草をした。
「あまり聴きません?」
「……クラシックならよく聴くかな」
「ベートーベンとか、そういう?」
「……全般、かな」
「優雅ですね、何か」
「そんなんじゃないの。私、ピアノやってたから」
「ピアノ! 恰好いいっすね。上手いんですか?」
「一応、高校のころにコンクールで優勝したことあるよ」
「凄いじゃないっすか。俺、そういう活躍とか無縁だったから、憧れます。ギターを練習してた時期もあるんですけど、その道に進もうなんて思うほど情熱があったわけでも、上手かったわけでもなく、結局、趣味の範囲でした」
彼女はどこか寂しさを含んだ笑みを見せた。
「……私だって同じだよ。才能があるピアニストはたくさんいるから。連呼君がこの前言ってたけど、私も〝何者〟にもなれなかった人間なの」
「でも、コンクールで優勝したんでしょ? ネットにも名前とか出てるんじゃないっすか」
「うん、まあ……出てるよ」
即答できるということは、彼女自身、インターネットで自分の名前を検索したことがあるのだろう。
「調べてみていいっすか?」
スマートフォンを取り出すと、彼女は苦笑いしながら「いいよ」と答えた。
検索サイトに彼女の名前を打ち込むと、結果が大量に並んだ。一番上は『今を輝く人』という記事だ。タイトルと彼女のフルネームが記載されている。
記事にアクセスしてみた。
『本特集では毎回「今を輝く人」を紹介する。第28回は、本場でフレンチを学び、新宿にレストランを開いた女性を特集する』
料理人として彼女の名前が紹介されていた。だが、横に表示されている顔写真は、別人だ。
「その人、有名なお店のコックさん」
横から彼女が言った。
「同姓同名の人?」
「そう。顔写真も一番よく出てくる。同じ名前の別人が世の中にいるって、何だか不思議な感じ。私からしたら向こうが偽者みたいなのに、向こうからしたら私のほうを偽者って感じるのかな」
あまりピンとこなかったものの、「そういうの、ありますよね」と共感を示しておいた。
次の記事もその次の記事も、フレンチの料理人の〝彼女〟だった。四つ目の記事は、体操の全国大会に出場した女子高生の〝彼女〟だ。
「これは?」
彼女は笑いながらかぶりを振った。
「私、吹奏楽部だったから」
連呼は彼女の名前に検索ワードを付け加えた。『ピアノ』と入力する。すると、高校のピアノコンクールの記事がヒットした。新聞記者によるインタビューが掲載されている。
「それそれ」
記事を読むと、彼女は音楽に対する熱意を語った後、『今回のコンクールの優勝で私の存在を知っていただけたら嬉しいです』と結んでいた。
「優勝してピアニストとしての道が大きく開けるかと思ったけど、ステージが上がれば上がるほど周りは天才ばかりで……結局、夢を諦めて、ピアノは趣味に留めておくことにしたの」
インタビューされたり、記事になったり、注目されたり──。そんな輝かしさとは無縁で生きてきた自分にとっては、人生の一時とはいえ、こんなふうに〝何者〟かになれた彼女を羨ましく思う。
連呼はそう語った。
「でも、中途半端に夢を見ちゃうと、囚われちゃうから、それはそれで苦しいよ。私も割り切れたわけじゃないし」
「本気だったからこそ、なのかもしれないっすね」
「……うん、そうかもね」
プライベートな話を交わしたことで、彼女と少し距離が縮まった気がして嬉しい。
「連呼君は?」
「え?」
「同じ名前の人。いる?」
「あ、そっちっすか。名前がネットに出てるかって訊かれてるのかと思いました。俺は──」連呼はスマートフォンの検索欄に自分のフルネームを打ちはじめた。「どう、っすかね……」
一番上には、歯科医のホームページのリンクが表示された。『江浪歯科医院』に勤務している歯科医のようだった。
次には、ある高校の陸上部の実績を載せた記事があり、その中に『統一連呼』がいた。四百メートルハードルで地区大会三位になっているらしい。八年前の記録のようだ。『江浪歯科医院』の歯科医と同一人物なのか、それとも別人なのか。
画面をスクロールすると、高校サッカーの記事がヒットした。
『統一連呼 ハットトリック!』
実際に自分の名前を調べて同姓同名の人間の存在を意識すると、彼女の気持ちが理解できた。
たしかに不思議な感覚だ。別世界に存在するもう一人の自分がいるような──。
連呼は高校サッカーで活躍する統一連呼の記事を開いてみた。今年度の大会だった。東京予選でハットトリック──三ゴール──を達成したらしい。
活躍している自分を見ると、何者にもなれない自身の存在がより惨めに感じる。
同じ名前なのに、自分はなぜこうなのか。
──向こうが本物だ。
なぜかそう思ってしまった。活躍して名を馳せている〝統一連呼〟と、何者でもない〝統一連呼〟。世の中が必要としているのは──より大勢から愛されているのは、向こうの〝統一連呼〟だろう。
──検索するんじゃなかったな。
連呼は歯を噛み締めた。
同姓同名の人間を検索するのは、自分とそっくりな分身で、出会ったら死んでしまうという自己像幻視を探すようなものかもしれない。
スマートフォンの画面を覗き込んでいる彼女は、全く他意のない口調で言った。
「サッカーしてる連呼君がいるね」
連呼は胸の内側で渦巻いている感情を懸命に押し隠し、「そうっすね」と応じた。
「他には?」
彼女がスマートフォンに人差し指を伸ばし、検索結果をスクロールした。
他にも〝統一連呼〟が存在していた。医学的な研究の分野にも一人。専門的な話は分からないものの、将来、ノーベル賞でも受賞されたら、世の中の全ての〝統一連呼〟は脇役に追いやられるだろう。
検索結果のさらに下には──。
『女子児童にわいせつ行為 小学校教師(23)逮捕』
え? と目が釘付けになった。
──逮捕?
リンクのタイトルの下に一部が表示されている本文には、『統一連呼容疑者』の文字があった。
「あ、これは嫌だよね」
彼女がフォローするように言った。
「たしかに、犯罪者と同姓同名は、ちょっと……」
連呼はそう答えながらも、内心では、この統一連呼には勝っている──と自分でもよく分からない優越感を覚えていた。
「……もうやめましょう」
連呼はスマートフォンをスリープ状態にした。
同姓同名の人間の人生を覗き見していると、自分と他人の境界線が曖昧になり、魂が同化するような──あるいは乖離するような、何とも言えない不安に襲われた。
目覚ましの音で起きた統一連呼は、枕元のスマートフォンを取り上げた。SNSでトレンドに目を通そうと思った。
流行の話題は一日で過去のものになる。常にその日のネタを仕入れなければならないのだ。
面白いツイートはないか調べようとしたとき、それが目に飛び込んできた。
トレンド一位になっている単語──。
『統一連呼』
一瞬、状況が呑み込めなかった。全国大会でハットトリックの大活躍をしたわけでもないのに、なぜ自分の名前がトレンド一位になっているのか。
不吉な予感と共に不安がせり上がってくる。
一体何が起こっているのか。
連呼は深呼吸で気持ちを落ち着けた。
ただの高校生の自分が日本じゅうで話題にされている錯覚に囚われ、胆が冷えた。まるで背骨が氷の棒に置き換わったような──。
まさか変な形で晒されたのだろうか。
ツイッターでは、毎日、色んな〝告発〟があり、常に誰かや何かが〝炎上〟している。理不尽な社則を強いた企業だったり、セクハラをしたカメラマンだったり、不倫した芸能人だったり、差別的な広告を制作した企業や広告代理店だったり、厨房で不潔な行為をしたバイトだったり、暴言を吐いた匿名のアカウントだったり──。
ツイッターをしていなくても、誰かに個人情報と共に晒された時点でインターネットの十字架に磔にされ、大勢から石を投げられる。数ヵ月前に病院への暴言をブログで発信した岩手県議は大炎上し、メディアとネットで批判されたあげく、自ら命を絶った。
そんな事態が自分の身にも降りかかってきたのではないか、と真剣に怯えた。
連呼は恐る恐る『統一連呼』の名前をタップした。撮影された週刊誌の一面がアップロードされている。
冷酷無比 愛美ちゃんを惨殺
鬼畜な殺人犯 16歳少年の実名を公表
統一連呼
──俺が愛美ちゃんを惨殺?
禍々しい書体の見出しを見た瞬間、見慣れた自分の名前が呪いのように体にとり憑き、侵食してくる感覚に襲われた。自分の名前が赤の他人の名前のように遠く感じる。だがしかし、それは間違いなく自分の名前なのだった。
何とか画面から視線を引き剥がし、また深呼吸する。心臓はフィールドを自陣から敵陣まで全力で駆け上がった直後のように乱れ、今にも破れそうだった。
『非人道的な残虐さで幼い命を無慈悲に奪いながらも、16歳という年齢で少年法の陰に隠れている少年の名前は、「統一連呼」──。本誌では事件の重大性を考慮し、実名を公表する』
──被害者ばっかプライバシーを公開されるの、不公平じゃん。
近年稀に見る凶悪な猟奇殺人事件に憤りを感じ、正義漢に見られたい打算もあって実名公表の必要性を言い立てた。
今、週刊誌が少年法の壁を破り、犯人の少年の実名を暴露した。それは本来、溜飲が下がるはずだった。〝少年A〟という記号に守られて胸を撫で下ろす悪人の素性が日本じゅうに晒され、社会的な制裁を受けるのだから。
だが、明らかになった少年の実名がまさか自分と同姓同名とは想像もしなかった。
連呼はスマートフォンに目を戻した。『統一連呼』が含まれる日本じゅうのツイートが順に表示されている。
数字を見ると、一時間に千二百五十六件もツイートされていた。恐ろしいツイート数だ。千や万単位で共有されているツイートもあるので、拡散速度は尋常ではない。
『愛美ちゃんを殺した殺人鬼、統一連呼っていうんだ?』
『統一連呼って奴、シンプルに死ね!』
『統一連呼。お前の名前、絶対に一生忘れねえからな』
『統一連呼な。覚えた。お前みたいなクソ野郎は四肢を引き千切られて死ね』
『統一連呼許さん。お前は生きられるかもしれないけどな、殺された愛美ちゃんはもう帰ってこないんだ!』
『外道の名前は統一連呼。徹底的に糾弾を!』
『統一連呼を許すな。八つ裂きにしてやりたい』
『統一連呼。お前は二度と社会復帰するな!』
『死刑嘆願 #統一連呼』
『統一連呼。絶対に忘れない名前』
『統一連呼死ね!』
『週刊誌、GJ! よく名前を公表した! #統一連呼』
『犯人の名前が判明。胸糞野郎。統一連呼』
『統一連呼っていうのか。てめー、絶対に許さねえからな』
『未成年ってだけですぐ社会に戻ってくるぞ! #統一連呼』
『死刑も生温い! #統一連呼』
噴きこぼれる憎悪と憤激の数々が実体を持って迫りくるようで、連呼は激しい動悸を覚えた。スマートフォンの画面以外が視界に入らないほど視野が狭まり、胃が凍りついた。血管の中を駆け巡る血液も冷水のようだった。
──俺は日本じゅうから敵視され、嫌われている。
理性では自分ではないと分かっているのに、意識の中でどうしても切り離せない。
統一連呼。
同じ名前だ。ネット上に書き込まれる文字に差はない。犯人と自分を区別する差は何一つないのだ。それならば、統一連呼に浴びせられる無数の罵倒は、自分に向けられたものと何ら変わらないのではないか。
絶望の奈落へ蹴り落とされたかのようだった。
連呼は目を閉じると、いつものように試合で大活躍する妄想に浸ろうとした。
だが──。
ゴールしたとたん、満員の大観衆から浴びせられるのは、歓喜の統一連呼コールではなく、罵詈雑言だった。ツイッターで目にした統一連呼への怒りと憎しみの文言が観客から石つぶてのごとくぶつけられる。
連呼は汗だくになりながら目を開いた。息が乱れ、部屋の空気が薄くなったように感じた。
サッカーの日本代表になり、自分の名前を──統一連呼という名前を世界に知らしめたいという夢を持っていた。だが、今この瞬間、その名前は鬼畜の象徴となってしまった。
スタジアムでレギュラーメンバーとして名前が発表されたとき、皆の頭にあるのは猟奇殺人犯の存在だ。応援してくれるファンも、名前を呼ぶたび、愛美ちゃんが殺害された陰惨な事件を思い出してしまうだろう。
自分の名前が穢されてしまった。同じ統一連呼によって。
連呼は家を出ると、自転車を漕いで高校へ向かった。
住宅街を走って十五分で着いた。校門を通っていく生徒はまばらで、部活仲間やクラスメイトは見かけなかった。自転車置き場に自転車を停め、校舎に入る。
世界に誰もいなくなったように、昇降口も廊下も閑散としていて、静寂に包まれていた。だが、現実に猟奇殺人犯の〝統一連呼〟は存在しているのだ。気になるのはもはやそれだけだった。
誰もいない三年二組の教室に入ると、椅子に座り、鞄を机に放り出した。暗緑の黒板を睨みつけ、嘆息を漏らす。
鞄から教科書とノートを取り出したとき、裏面が目に入った。
統一連呼──。
自分の名前が書いてある。
連呼は鼻で笑いそうになった。
持ち主を示す名前にどれほどの意味があるのか。同姓同名の生徒がいない学校内だから持ち主を識別できるが、日本全体で見れば個人を示してはいない。
自分にとっては唯一無二だった名前の存在価値が揺らいだ。名前がこれほど曖昧なものとは思わなかった。
犯人の名前が自分と同姓同名と知った今、名前がその犯罪者を示す、という論理に説得力を感じなくなった。世の中に同じ名前の人間が何人いるか。名前だけでは個人を表さないのだ。世界に一人しか存在しない、よほど奇抜でとんでもない名前でないかぎり。
やがて廊下が少しずつ賑やかになり、生徒たちが登校してきた。
「あっ」
先に登校していると思わなかったのだろう、天然パーマの友人が戸惑いを見せた。
「……よう」
彼は微苦笑しながら軽く手を上げた。
友人たちには普段どおり接しようと決めていたものの、向こうに意識されたらそれも難しい。
連呼は明るい調子を装って「よう」と挨拶した。天然パーマの友人は自分の席へ直行しようとしたが、思い直して戻ってきた。頭をがりがりと掻きながら言う。
「週刊誌の話、知ってるよな、その感じだと」
「……ああ」連呼はうなずいた。「ネットで大騒ぎだったし。『愛美ちゃん殺害事件』の犯人だろ」
「実名、マジびっくりしたわ」
連呼は自嘲の笑いを返すしかなかった。
「だよな。俺も」
「お前の名前を見たとき、頭の中が真っ白になってさ。何でお前が犯人にされてんだ、って真剣に戸惑ったもんな」
「一番迷惑してんの、俺だぞ。今もネット、騒いでるか?」
「ツイッターでトレンドワードの十位以内キープ」
「マジ?」
「実名はネットで拡散してもう誰もが知ってんのに、新聞やテレビだけは報じないだろ。それが納得できなくて、おさまりがつかない感じになってる。マスコミはいつまで犯人の実名を隠すんだ、犯人を庇うな、って」
ネットが過熱している様が容易に想像でき、げんなりする。彼らが犯人の〝統一連呼〟にぶつけている怒りと憎しみは、全て同姓同名の人間に突き刺さる。
「お前はネット、見てねえの?」
「自分が罵倒されてるツイートとか、嫌な気持ちになるからさ。スマホはメールのチェックだけ」
「同情する。たまたま同じ名前ってだけで悲惨だよな」
つい先日までは充実した人生を生きていたのに、突然こんな形で夢を踏みにじられるとは想像もしなかった。
野球部の友人も登校してきた。連呼を見ると、気まずそうに近づいてきた。
「もしかして──知ってる?」
彼は曖昧に話しかけてきた。
「俺の名前の話?」
「……まあ、な。お前の名前が出てパニクった」
「俺が一番の当事者だからな」
「そうだろうけどさ。複雑な心境だよ」
「何が複雑なんだよ?」
「あ、いや、変な意味じゃなくてさ」
「……こんなことなら実名なんて公表されないほうがよかったよ」
「それは結果論じゃん。俺はやっぱり犯罪者の名前はきっちり公表していくべきだと思うね」
「他人事だからそう言えるんだよ。俺の立場だったらどうする?」
「その仮定はずるくね? 俺は関係ないだろ」
「想像力を働かせてくれよ」
「お前は殺人犯が〝少年A〟でいいと思ってんのかよ」
天然パーマの友人が「まあまあ」と仲裁に入った。連呼の肩を叩く。「お前も落ち着けよ」
お前──か。
連呼は二人が自分を名前で呼んでいないことに気づいた。今までは『連呼』だったのに──。
二人の中では〝統一連呼〟は、口に出すのもはばかられる名前になってしまったのだ。
連呼は野球部の友人を見つめた。
「そもそも、少年A問題とこれは違うだろ」
「有名人同士だって同姓同名で活躍してる人間はいるじゃん」
思い返せば、サッカー選手と同姓同名の野球選手もいる。その場合、人々は〝サッカーのほうの誰々〟〝野球のほうの誰々〟と表現して区別している。
それならまだましだ。
つらいのは──同じフィールドで生きている同姓同名の人間だろう。サッカー選手同士でも、思い当たる。
有名選手と無名選手──。
今思うと、活躍していないほうの選手のことは、皆〝無名のほうの〟とつけて区別していた。事実だから別に悪いことだと感じたことはなかった。だが、本人はどうだったのだろう。
自分で『無名のほうの誰々です』と自虐的に自己紹介していたが、内心、不快だったのではないか。相手に比べて無名なのは事実だから、おどけるしかなかったのかもしれない。
ファンたちは、同じ名前というだけで二人を比較した。心の中で〝無名のほう〟を偽者と見なしてはいなかったか。
連呼はふと気づいた。
名前というものは、早い者勝ちの争奪戦なのだ。
悪名だろうと何だろうと、先に有名になった者がその名前を我が物にできるのだ。
美人のアイドルと同姓同名なら、他人はその名前を聞いただけで外見に期待感を持つ。ハードルは上がるだろう。差があればあるほど、人は落差でがっかりする。そして──所詮は名前が同じだけの偽者だと断じるのだ。
──本人にとっては本物なのに。
名前というものの不確かさと恐ろしさ──。
チャイムが鳴り、担任教師が入ってくると、二人は救われたように各々の席へ去っていった。
救われたのは連呼も同じだった。
朝礼が終わると、すぐに一時間目がはじまった。苦手な数学だ。黒板に書かれた式は、異国の言語さながらだった。
数学教師が掛け時計を一瞥した。
「五分だから──この問題は五番。統一」
苗字を呼ばれたとたん、ほんの一瞬だけ教室の空気が緊張した──気がするのは思い過ごしだろうか。
居心地の悪さを感じた。
何か恐ろしい運命に巻き込まれ、野次馬の一人にすぎない、人生の脇役の自分が無理やり断頭台に引きずり出されたような恐怖におののいた。
なぜこんなことになったのか。
シフトが入っていない二日間、統一連呼は外出もしなかった。少年Aの実名の衝撃が抜けない。
日々、ネットでは〝統一連呼〟への罵詈雑言があふれ返っている。『週刊真実』の実名暴露記事をワイドショーが報じたせいだ。週刊誌は売り切れ続出だという。
犯人の実名が報じられた瞬間から、単なるアルファベットにすぎなかった〝少年A〟が〝統一連呼〟になった。人々の意識にはその名前が刻み込まれた。そう、まるで呪符に血で書かれた忌まわしい単語のように。
女児を惨殺した殺人犯は、人々にとっては、唯一無二の〝統一連呼〟なのだ。人はみんな、どの犯罪者の名前も、その犯人だけを指し示していると思い込んでいる。だが、実際には同姓同名の人間が大勢いる。統一連呼もそうだ。
歯科医の統一連呼。高校サッカーで活躍していた統一連呼。研究者の統一連呼。こうしてコンビニバイトで生計を立てている、何者でもない統一連呼──。
連呼はインターネットの検索サイトで『統一連呼』と入力した。特定の分野で多少なりとも活躍している統一連呼たちは、愛美ちゃんを惨殺した〝統一連呼〟に塗り潰されていた。
表示された検索結果は、数十ページを確認しても、猟奇殺人犯の〝統一連呼〟一色だった。匿名掲示板の『愛美ちゃん殺害事件』のスレッドや、まとめサイト、有名人のツイート、個人のブログなど──。
連呼は、自分が大勢から糾弾されている場所を覗いてしまうような、押し潰されそうな不安と共にスレッドを開いた。あふれる書き込みの数々は、〝統一連呼〟を攻撃していた。アカウント名やハンドルネームもない匿名掲示板の書き込みはひときわ過激で、情け容赦がなかった。
『統一連呼の家族も親族も死刑にしろ!』
『一家全員の個人情報を突き止めて晒せ!』
『鬼畜を育てた親も連帯責任だろ』
『統一連呼の顔写真まだ?』
『役に立たねえな、マスコミ! もっと追い込めよ!』
『女児を殺した統一連呼に人権なし!』
『俺たちの手で統一連呼を追い詰めんぞ!』
『愛美ちゃんの無念を晴らしてやろうぜ。人誅だ』
『どうせ死刑にならずにすぐ世に戻ってくるんだから、統一連呼がもうこの社会で生きていけないようにしなきゃ、駄目だろ』
『統一連呼死ね死ね死ね死ね死ね死ね』
眺めていると、自分が殺人を犯し、責め立てられている気がしてくる。それでも見るのをやめられなかった。自分が槍玉に挙げられている状況を無視できるはずがない。
コンビニが近づいてくるにつれ、自然とため息が漏れる。
店に入ると、いつもの二人の目が同時に向けられた。
「あっ……」
彼女がつぶやきを漏らし、さっと視線を逸らした。
「こんにちは」
連呼は彼女に挨拶した。
気まずい間がある。
「うん……」
返ってきたのは挨拶ではなく、無視もできず仕方なく応えただけのような反応だった。鈍感な人間でも、微妙な空気が立ち込めていることは分かる。一体何があったのだろう。
連呼は着替えてから売場へ戻ると、彼女に話しかけた。
「……今日は天気悪いっすね」
無難な話題で彼女に話しかけ、様子を見た。今度は一切の反応がなかった。
「また何か言われたんすか?」
連呼は中年バイトを一瞥した。二人きりの勤務中にこの〝説教親父〟に絡まれたのかもしれない。
彼女の代わりに答えたのは中年バイトのほうだった。
「人のせいにすんなよ。口も利いてねえよ」
──じゃあ、何で彼女はこんなに不機嫌なんですか。
強い口調で問い詰めたかった。だが、バイトに来て早々に口論したくもなかったので、ぐっと我慢した。
連呼は彼女に話しかけた。彼女は下唇を噛み、眉間に皺を寄せたまましばらく黙り込んでいた。嘆息と共に顔を向ける。
「……空気読んでよ。あなたと話したい気分じゃないの」
あなた──。
いつもは柔らかい口調で『連呼君』と呼んでくれる。優しいお姉さん的な存在で、好意を持っていた。しかし今は、普段の彼女の穏やかさは微塵もなく、まるで執拗なセクハラ加害者に対するような拒絶だった。
連呼は戸惑った。自分に怒りの矛先が向く心当たりがない。
いや……一つだけある。
「署名のことなら──」
彼女からは犯人の実名公表嘆願への署名をお願いされ、断っている。
彼女の眉尻が跳ね上がった。
「犯人の実名はもう週刊誌が暴露したけど? それで私の言いたいこと分かるでしょ」
連呼ははっとした。
彼女は知っているのだ。猟奇殺人犯の少年の実名が統一連呼だ、と。
同姓同名──。
「い、いやいや! でも、俺と犯人は別人ですし……」
「そんなの、分かってる。当たり前でしょ。犯人は逮捕されてるんだから」
「で、ですよね……」
「そういう問題じゃないの。気持ちの問題」
「そんなこと言われても──俺は生まれたときからこの名前ですし、俺の意思じゃどうにもできないっすよ」
理不尽すぎる──と反論が口をついて出そうになった。
だが、考えてみれば、正義感あふれる彼女が蛇蝎のごとく嫌悪し、憎む猟奇殺人犯と同姓同名なのだ。嫌でも意識するだろう。
作家や漫画家、俳優、映画監督などの有名人が性犯罪などの被害者がいる事件を起こしたとき、その作者や出演者の作品は世の中から排除される。公の場に復帰することは許されなくなる。加害者の名前を目にしたら被害者が苦しむ――という理由で。
であるなら、その加害者と同姓同名の人間はどうなる? その名前が被害者の目に入ったら? 名前が被害者のトラウマや苦しみを蘇らせるとするならば、同姓同名の人間の名前を見ても同じではないか。ぱっと目に入った名前で当時の被害が蘇り、動揺した被害者が、同姓同名の別人だと気づいたとたん、苦しみの記憶が都合よく封印されたりはしないだろう。
加害者の名前だけで誰かを苦しめるなら、もはや世の中にとって名前そのものが罪なのだ。
運悪く犯罪者や加害者と同姓同名になった自分の不幸を恨むしかない。
だが、彼女の気持ちは理解できても、自分の感情としては納得できない。
突然、背後で哄笑が弾けた。
連呼は振り返り、大口を開けて笑いのめす中年バイトをねめつけた。無神経な笑い声が癇に障る。
「何なんすか」
声には御しがたい怒気が籠った。
「いやあ、安易に実名公表に賛同していた人間の末路が笑えてな。皮肉すぎて皮肉すぎて」
殴りかかりたい衝動に駆り立てられた。握り締めた拳にますます力が入る。
自分が一体何をしたのか。
何もしていない。ただ、毎日を必死に、低賃金のバイトで生きてきただけ──。
恋愛でもうまくいったことはなく、バイト先で好意を持った女性と仲良くなりたいという淡い思いを抱いていた。だが、悪名がその可能性を潰してしまった。
バイトが終わるまで、客への対応以外、声を発する機会もなく、連呼は孤独の中で過ごした。
店を出ると、ようやく牢獄から解放された思いだった。
自分の名前を意識すると、すれ違う人々が全員、自分を非難しているような錯覚に陥った。誰もが週刊誌の実名公表記事を目にし、猟奇殺人犯の少年が〝統一連呼〟だと知っているだろう。きっと〝統一連呼〟に怒りを感じ、許せないと憤っているはずだ。
その怒りは犯人の〝統一連呼〟に向けられていると頭で理解していても、感情は別だった。
帰宅すると、スマートフォンで現状を確認した。確認せずにはいられなかった。
全く無関係だったはずの猟奇殺人事件は、犯人が自分と同姓同名だったことで否応なく鎖で?がってしまった。そのまま大渦に引きずり込まれ、深海まで飲み込まれた。
外国人だから。男だから。女だから。障害があるから。無職だから。ホームレスだから。オタクだから。病気持ちだから──。世の中はあらゆる偏見に満ちている。生まれ持った属性だけでなく、特定の職業や、特定の趣味嗜好を理由に嫌悪され、馬鹿にされ、迫害される。
だが、そこに『統一連呼だから』という理由が加わるとは思わなかった。統一連呼という名前は、今後、自分が背負っていく罪になったのだ。〝統一連呼〟が猟奇殺人を犯したせいで。
何者でもなかった自分がこんな形で何者かになるなんて──。
だが、そう考えてはたと気づいた。
性犯罪や殺人事件の犯人と同姓同名の人間は必ず何人も──いや、何十人、何百人と世の中に存在しているのだ。
──決して自分が特別なわけではない。
犯罪者と同姓同名だなんて、最悪の状況だ。それなのに現実には日常茶飯事で、大勢が経験している。
自分の人生がこの先どうなるのか、分からなかった。
――7年後――
暖房が利いた部屋の中は、通販でまとめ買いしたスナック菓子の袋であふれ、移動するたびに必ず足の下でパリッと音がする。
カーテンは一日じゅう閉めっ放しで、天井の人工的な照明が室内を冷たく照らしている。太陽を全身に浴びることが月に何度あるか──。
そんな引きこもり生活がもう何年も続いている。
統一連呼はベッドで仰向けに寝転がったまま、スマートフォンでアニメを漫然と観ていた。
優しい世界はもうアニメの中にしか存在していない。現実は残酷で、何の魅力もない。
アニメを観終えると、ツイッターを開いた。好きなイラストレーターばかりフォローしているから、最高のイラストがTLに流れてくる。それが数少ない癒しだった。
だが、真っ先に目に飛び込んできたもの──。
ツイッターのトレンドワードだった。自分の名前が──統一連呼の名前が一位になっていた。
大渦に飲まれて過去に舞い戻ったような──いや、過去の亡霊が追いかけてきたような恐怖を覚えた。心臓の鼓動が騒がしく、胃がきゅっと締めつけられた。
なぜ統一連呼の名前がまた話題になっているのか。また別の統一連呼が何かをしでかしたのか。
称えられる功績ではないだろう。漠然とだが確信がある。
連呼は恐る恐るトレンドの統一連呼の名前をタップした。統一連呼の名前を含んだツイートが一斉に表示される。
『あの統一連呼が社会に戻ってくるらしいぞ』
『小学生の女の子を惨殺してたった七年で釈放かよ! #統一連呼』
『今からでも統一連呼を死刑にしろよ!』
『犯行時に十六歳だったからって、刑が甘くなるの、おかしくね? 今は二十歳超えてんだから、重罰に処すべき!』
『最悪。サイコパスを野放しかよ! #統一連呼』
『津田愛美ちゃんの事件を忘れるな! 猟奇殺人犯・統一連呼に死を!』
体が奈落へ落ちていく。スマートフォンを握る手にぐっと力が入った。
あいつが出てくる──。
記事によると、少年院が少年の更生と社会復帰を目的にしているのに対し、〝統一連呼〟が入れられた少年刑務所は、重大犯罪を起こした十六歳以上二十六歳未満の青少年に刑罰を与える施設だという。
〝統一連呼〟は実名が世の中に出回ったせいで甚大な社会的制裁を受けたこと、優秀な人権派弁護士が弁護団を結成して弁護したことで減刑され、本人が裁判で反省を示して少年刑務所内でも模範囚だったことが影響して、六年半で釈放された。正確には、逮捕から有罪判決を受けるまでの勾留期間──未決勾留百五十日が刑に算入されているので、七年間服役していたことになる。記事中の裁判官いわく、少年事件に多い不定期刑──あらかじめ刑期を決めず、刑の上限と下限を定める形──だったとはいえ、七年での釈放は近年でも短いほうだという。
信じられない思いだった。また統一連呼の名前がクローズアップされ、日本じゅうから憎悪を向けられる。
連呼は拳を握り締めた。爪が手のひらに食い込むほど強く、強く、ひたすら強く──。
もう人生を壊さないでくれ。〝統一連呼〟も。世の中の誰も彼も。頼むから……。
連呼はインターネットで〝統一連呼〟関連の話題を検索し、人々の書き込みを読み漁った。三時間ほど経ったとき、一つの記事のタイトルが飛び込んできた。
『津田啓一郎さんを逮捕。元少年を襲う』
連呼は目を疑った。
元少年──。
このタイミングでこの表現。そして、逮捕された人間の姓。嫌でも悪い想像をしてしまう。
連呼は震える人差し指で画面をタップし、記事を開いた。
『──少年刑務所を出た元少年(23)がナイフで襲われ、怪我をした。逮捕されたのは津田啓一郎さん(45)。津田さんは7年前、娘の愛美ちゃん(当時6)を公衆トイレで惨殺されている。腹部を刺された元少年の命に別状はない模様』
やはり想像したとおりだった。
遺族による犯人への復讐──。
被害者が七年前の加害者で、今回逮捕された加害者が七年前の遺族──。難しい記事だったのではないか。しかし、記者は包み隠さずそれぞれの関係性を書くことに決めたらしい。名が知られている遺族だからか、さん付けだ。
これでネットはますます燃え上がる。
連呼は配信されたばかりの記事を閉じ、ツイッターで話題になっていないか、検索した。
『衝撃映像! 遺族無念、復讐ならず。邪魔してやんなよ! 胸糞悪い! 取り押さえた奴も統一連呼と同罪だからな! ちょっとは頭使えや!』
憤怒が燃える攻撃的なツイートに添付されているのは、二分ほどの動画だった。一万二千も共有されている。
連呼は不安に駆られながら再生した。
スマートフォンで撮影したと思しき映像だ。数人の声が騒がしい中、画面が生々しく揺れていた。
ピン留めされた昆虫のように、路上にうつ伏せで押さえつけられた中年男性が映っていた。三人の若者が両手足を押さえている。中年男性は唯一動かせる顔を持ち上げ、わめき立てていた。
「放せ! 邪魔するな! 何で止めるんだ! 悪いのはあいつだろ。あいつを助けないでくれ!」
血を吐くような魂の叫びだった。
──採用。
中途採用面接を受け続けること半年。二十五社目で貰った採用の二文字──。
統一連呼は一人でガッツポーズした。ブラックな今の会社とは比較にならないほど大きな会社で、給料も高い。
翌日、退職の意思を伝えるために出社し、仕事をしていると、いつもどおり上司の怒声が飛んだ。
「書類、出してねえじゃねえか! 愚鈍か!」
普段なら自尊心が踏みにじられ、屈辱的な気分になる。だが、今日ばかりは違った。
自然と薄笑いがこぼれた。
「何ニヤついてんの、お前」
上司の顔が歪む。メーターで不機嫌さが分かるなら、きっと針が振り切れているだろう。
連呼は椅子を倒しそうな勢いで立ち上がった。上司の肩がビクッと反応する。
「な、何だよ」
連呼は上司を睨みつけると、鞄から封筒を取り出し、机に叩きつけた。
上司が机に視線を落とした。
連呼は手を外した。下から『退職届』の文字が現れる。
「何だ、そりゃ」
「辞めます」
「は? 急に何言ってんの、お前」
「もう耐えられないんで、退職します。明日からは有休を消化して出社しません」
そういえば、定時制高校時代のコンビニバイトも同じように唐突に辞めたな、と思い出す。
「お前みたいな根性なしがうちを辞めて、雇ってくれる会社があると思ってんの? まず死ぬ気でやれよ!」
冷笑が漏れそうになった。
「もう就職先、決まってるんで。今より給料がいい会社なんで」
上司が目を吊り上げ、怒鳴り散らした。罵詈雑言がとめどもなくあふれ出している。
我慢できなくなり、連呼はポケットからボイスレコーダーを取り出した。
「──引き止めるなら、パワハラで告発しますよ。俺がネットで暴露したら、炎上して会社、潰れますよ」
上司の顔が一瞬で青ざめた。
痛快な気分だった。
連呼は必要最低限の引き継ぎを終わらせ、会社を出た。上司の忌々しそうな眼差しに晒されながら。
今思えば、なぜあれほど思い詰めていたのか。辞めると宣言してしまえば、所詮、金輪際関わることのない赤の他人なのだ。罵倒の言葉も、もう心をえぐらなかった。
ブラックな会社から解放されると、後は新しい会社の出社時期を待つのみだった。
だが──。
三週間後、新しい会社の人事担当者からメールが届いた。開いたとたん、『大変申しわけありませんが』という謝罪の一文が真っ先に目に入った。
漠然とした不安が胸に兆した。
深呼吸し、文章を読んでいく。
内容は──コロナの影響で採用できなくなってしまった、というものだった。
愕然とした。足元が音を立てて崩れていくように感じた。心臓に痛みが走り、呼吸が乱れる。
コロナ? コロナって何だ?
連呼はなりふり構わず人事担当者に電話し、問いただした。だが、どうにもならないの一点張りで、ただただ謝罪されるばかりだった。
「こっちは今の会社を辞めてしまったんですよ!」
感情的に訴えるも、相手の返事は変わらなかった。
諦めたら無職の身だ。筋が通らないのは相手のほうなのだから、引き下がらずに反論を続けた。コロナの一言で終わらされてたまるか、という思いがある。
しかし、三十分以上話しても埒が明かなかった。粘ったものの、結局、根負けし、電話を切った。
眩暈がした。腹立ちが抑えられず、いつものようにツイッターで愚痴を吐き出そうと思った。この仕打ちを告発し、正当性を世に問いたい。
ツイッターを開いたとき、目に飛び込んできたツイートを見て慄然とした。
あの〝統一連呼〟が社会に戻ってきていた。悪名で統一連呼の名前を上書きし、他の統一連呼を地獄のどん底に叩き落とした猟奇殺人犯が──。
無意識のうちに、〝統一連呼〟の有罪判決で事件は終わったと思っていた。年月と共に悪名は薄まっていき、やがて自分の名前を取り戻せるのだ、と。だが、違った。
死刑が執行されたわけではないのだ。いつかは社会に戻ってくることは自明だった。それが今だ。
情報を纏めたサイトを見ると、さらに詳しく現状が分かった。六歳の愛美ちゃんを惨殺した〝統一連呼〟は、少年刑務所を出たとたん、遺族に襲われ、病院に運ばれたという。逮捕された遺族の釈放嘆願の署名活動などが行われている。ワイドショーに出演している社会学者が生放送で〝統一連呼〟の名前を出したことにより、騒動が過熱した。視聴率が十パーセントを超える番組で全国に拡散した、少年Aだった犯人の実名──。
採用が一転、不採用になった本当の理由はこれだったのか。
〝統一連呼〟がまた人生を踏みにじろうとしている。どこまで俺を苦しめるのか。
ツイッター上では、〝統一連呼〟への怒りと憎しみ、復讐を試みて逮捕された遺族への同情と共感があふれている。
『娘を殺された遺族を逮捕するなんて、日本は間違ってる! 狂った社会!』
『仇討ちを認めろよ。娘の命がたった懲役七年以下だぞ。そりゃ、親としては許せねえだろ』
『法が死刑にしないからだろ。法の不備でこうなったのに、遺族は処罰すんのかよ』
『釈放嘆願の署名をしよう! 刑罰を受けるべきなのは統一連呼だろ。遺族を救え!』
人々にとっては、加害者が刑罰を受けて罪を償っても、足りないのだ。個々の感情が法を超えるのだ。世論が法を超えるのだ。
昔の自分なら、世間の感情に同調し、義憤に駆られて怒りの声を上げたかもしれない。そのほうが好感度が上がって、善人に見られる、という打算が心の奥底にあって、人前で正義漢を気取っただろう。
今は世間の感情の爆発が怖かった。犯罪者に温情をかけるべき、とか、犯罪者にも人権を、とか、犯罪者を許せ、とか、そんな綺麗事を吐くつもりはない。犯罪者の味方をするつもりもない。
ただ、世の中に渦巻き、噴出するマグマのような怒りと憎しみが怖いのだ。それは怨念さながらで、誰も彼もにとり憑いていく。蔓延した悪感情が人を支配する。
怒れ!
憎め!
恨め!
非難しろ!
そうしない人間は加害者の味方で、犯罪者予備軍で、人間のクズだ──とばかりに、完璧な同調を求められる。それがSNS社会の現実だった。
〝統一連呼〟は、次に大事件が起こるまで、〝理性的で道徳的で立派な人々〟が好き放題に石をぶつけて構わない生贄なのだ。学校や職場のいじめと違って、どれほど苛烈な罵倒を浴びせようとも、誰からも非難されない──それどころか、正義の代弁者として称賛され、共感される──生贄。
自分でも世界の見方が変わったと思う。
〝統一連呼〟の犯罪行為を嫌悪しているにもかかわらず、名前が同じというだけで、自分と同一視している。
悪いのは殺人を犯した〝統一連呼〟だと分かっていても、それを攻撃する人間たちの無自覚な加害性に恐怖を覚える。
ツイッターでは、『法治国家では復讐は許されていません』『それが法です』『私刑が認められたら秩序が保てません』『それこそ野蛮な国家です』と注意する声もわずかながら存在したが、ほとんど共感されず、リツイートも〝いいね〟も一桁か、せいぜい二桁だった。
冷静になるよう訴える反論の声も押し流す大波のような世論が形成されていると、もはや正しいことを言って邪魔をする人間は敵なのだ。正論が大勢に共感されるとは限らない。そのときの自分が抱いている怒りや嫌悪の感情が法に優先する、という思い込み。それは独善と傲慢ではないだろうか。
連呼はスマートフォンをベッドに放り投げた。
自分が同姓同名の苦しみを声高に叫んだとしても、きっと理解者はごく少数だろう。重大事件の犯人と同姓同名の人間が何人いるか。日本国内では、湖の中の一滴の墨汁と同じだ。
人はみんな、ぴんとこないものや、無関心なものには、感情移入も共感もできないのだ。
〝統一連呼〟は罪を償ったんだ。もういいだろう? 自分たちが許せないという感情で、社会復帰した人間を袋叩きにするのか?
そう、七年前は残虐な殺人事件を起こし、逮捕された。だから犯人が誹謗中傷されるのも当然だ。しかし、今は違う。法に則って少年刑務所で刑罰を受け、社会に戻った。後は遺族が民事裁判で損害賠償とか、そういう話だろう? ネットで悪感情を撒き散らしている野次馬同然の連中に何の関係がある?
──〝統一連呼〟を許してやってくれ。
──〝統一連呼〟は俺なんだ。
罪を犯し、実名が公表された犯人には怒りを掻き立てられるだろう。匿名の人間と違って〝個人〟がはっきりしている分、憎みやすいし、怒りもぶつけやすい。自分もそうだ。悪質な犯罪者は腹立たしいし、苛烈に責め立てたくなる。だが、その陰で踏みにじられている人間の気持ちを想像できる人間はいるか?
──そんな程度で。
自分の苦悩を知った知人がしばしば口にした。
『重大事件を起こした犯人の親になったり、被害者の遺族になるほうが苦しいだろ。嫌だろ。たかが名前が同じだけじゃん。そんな程度で人生が変わるわけないじゃん』
理解者なんていない。
相手が悪いのか、自分が悪いのか。
相手の些細な言葉や態度、表情で察してしまう。名前が生む心の距離感──。
気まずい空気に耐え兼ね、適当な愛想笑いで話を切り上げてしまう癖がついた。
そんな程度で──と言う相手に、同姓同名の人間に苦しめられた経験があるか訊くと、ない、と言う。自分と同姓同名の人間がどんな奴か知っているか、調べたことがあるか訊くと、それも、ない、と言う。その場で調べさせると、誰も彼も大した人間は出てこない。
その他大勢の同姓同名。
会社員、家庭教師、工場長、弁護士、美術家、技術者、教師、ゲーム会社社員、准教授、マラソンや将棋や野球などでそこそこの結果を出した学生──。誰もが当人にとっては唯一の〝個人〟でも、他人からはその他大勢だ。
CMに引っ張りだこの有名芸能人や、世界的に活躍するスポーツ選手でもなければ、猟奇殺人犯でもない。
圧倒的な名前の持ち主に押し潰されている者は、一人もいなかった。だからこの苦しみは分かるはずがない。人の想像力には限界がある。その立場にならなければ、本当の意味での苦しみは理解できないのだ。それを散々思い知らされた。
相手が〝統一連呼〟の名前に関心を示すと、当初は、自分の苦悩を理解してもらいたくて、自分がいかに被害者なのか、必死で訴えた。言葉足らずでも説明した。だが、返ってくる答えは決まっていた。
──たしかに嫌かもね。
それこそ、そんな程度、だった。そんな程度で片付けられたくなかった。
軽い。軽すぎる。理解したふり。面倒な話をさっさと終えたくて理解したふりをしている。表面的で空虚な台詞──。
──なぜ俺だけが。
理不尽だという感情に塗り潰されそうになったとき、コンビニバイト時代に──『愛美ちゃん殺害事件』の犯人の実名が出る前に──他の統一連呼を検索したことを思い出した。世の中には色んな統一連呼が存在していた。彼らの名前ももうネットでは見つけられないだろう。
〝統一連呼〟はきっと俺たちを苦しめている。
俺たち──。そう、苦しんでいるのは俺たち統一連呼だ。きっと他の統一連呼も同じように……。
連呼はふと思い立ち、質問サイトに書き込んだ。
『みなさん、同姓同名で苦しんだり悩んだりしたことはありますか? 体験談があれば聞きたいです』
二日も経つと、様々な返答が書き込まれた。
『某美人アイドルと同姓同名です。クラス替えのたびに自己紹介する時間が地獄です。顔をまじまじと見つめられて、苦笑いされるのがつらいです』
『僕は超有名芸能人と同じ名前です。病院で名前を呼ばれたとき、周りがざわつきます』
『昔、結婚を前提に付き合ってください、って告白されたけど、結婚して苗字が変わったら、かの有名なブスのお笑い芸人と同じ名前になっちゃうって思ったら、その人との結婚は考えられませんでした(笑)。今は普通の姓の旦那さんがいます』
『仕事で小説を書いてる人間だけど、悪役と同姓同名のネット有名人から「俺の名前を使って俺をディスっただろ」って言いがかりのクレームがあって迷惑した。恥ずかしいくらい自意識過剰だし、自分にどれだけ知名度があると思ってんだか』
『アニメのキャラと同姓同名。自己紹介するたび笑われる。決め台詞言ってくれ、とか、からかわれる』
『父親が野球ファンで、苗字が同じだからって、有名な元選手の名前を付けられた後輩がいる。父親の期待に応えようとして野球部に入ったけど、野球は下手。名前の落差で悲惨』
『可愛いと思った名前を娘に付けたんだけど、AV女優と同姓同名って知って絶望してる。付ける前に検索しとけばよかった』
『私じゃないんだけど、某歌手と同姓同名で、結構美人な子がいて、それをネタにして人気もあったんだけど、その歌手が大麻やって逮捕されたとたん、必死で隠すようになった。カワイソ(笑)』
回答には、同姓同名の人々の悩みがあふれていた。だが、どれも切実さはほとんどなく、共感は難しかった。大麻で逮捕された歌手と同姓同名でも、直接の被害者が出ている犯罪ではないので、自虐ネタとして使えば、同情を引く笑い話になるだろう。
だが、六歳の女の子を惨殺した猟奇殺人は無理だ。
満足できる回答ではなかったので、質問に文章を追加した。
『実は有名な犯罪者と同姓同名で悩んでいます。同じような人はいますか?』
新しい回答がないか、数十分おきにサイトを確認して過ごした。半日で数件の回答が増えた。
『俺がそうだよ。知り合った女に名前を教えたら、返信も来なくなる。検索して犯罪者が出てきてんだろうね』
『興味本位で調べたら逮捕のニュースが出ていました。正直、かなり気分が悪いです。有名な事件じゃないので、調べなきゃ気づかなかったのに……余計なことしなきゃよかったな、って』
『ある日、実名でやってたSNSに誹謗中傷が何件も届いて、何事かと思ったら、その日に逮捕されてニュースになった犯罪者のアカウントと間違われたらしい』
『婚約者の名前が犯罪者と同姓同名で悩んでいます。調べたら性犯罪者の名前が出てきて、もしかしたら──って。年齢も同じなんです。信じたいけど、不安で……。本人に確かめるのも難しくて。何とか調べる方法はありませんか?』
『高校時代に好きだった人の名前を調べたら、詐欺で逮捕されてた。本人かどうかいまだ分かりません』
『私は悪名高い殺人犯と同姓同名なので、さっさと結婚して改姓したくて、十九歳で結婚しました。今では、旧姓を名乗らなければ、変な目で見られることはありません』
世の中にはやはり存在するものだ。同じような悩みを持つ仲間がいると思うと、ほんの少しでも慰めになる。
仲間──か。
ここで回答してくれた人たちは、おそらく〝統一連呼〟ではない。どうせなら、同じ〝統一連呼〟として苦しんでいる仲間とその悩みを語り合いたい。
連呼はノートパソコンを立ち上げると、サイトを開設した。デザインは最低限で、交流用の掲示板を作り、下部にフリーメールアドレスを載せただけだから、時間はそれほどかからなかった。
サイトの名前は──『〝統一連呼〟同姓同名被害者の会』。
統一連呼は肩を縮こまらせ、背中を丸め気味にして一年三組の教室に入った。大半のクラスメイトが談笑している中、男女数人のグループから一瞥を向けられた。仲間内で何やら囁き交わし、小馬鹿にするような笑い声を上げている。
連呼はグループから視線を外し、自分の席に座った。教科書を鞄から机に移し終えると、ノートを取り出した。最新のページを開く。そこにはアニメ風のテイストで女の子の顔のイラストが描いてある。満面の笑みを浮かべてこちらを見つめている。
鉛筆を駆使し、体を描きはじめた。曲線を意識し、胸のラインからウエストのくびれまで、下書きする。
将来の夢はアニメに携わるイラストレーターだった。小学校のときに夢中になったような名作アニメを自分も作りたい。苦しんでいる人たちに優しさを与えてくれるような、魅力あふれるアニメを──。
視界から急にノートが滑るように消えた。
連呼は「え?」と顔を上げた。机の前にはいつもの女子三人と男子二人が立っていた。中心の女子がノートを手にしている。茶髪の巻き髪が頬を縁取っており、校則違反のピアスが覗いていた。害虫でも見るような顔つきだ。
「えー、何これ? キモイ絵!」
他の四人がノートを覗き込む。
「うわ、裸じゃん」
「何? 女の裸描いてんの?」
「ヤバッ!」
口々に嘲笑と侮蔑をぶつけられた。
「い、いや、それは──」連呼は口ごもりながら、小声で反論した。「下書きだから。服を描く前にちゃんと人体の輪郭を描いて──」
「え?」中心の女子が嫌悪の顔で耳に手を当てる。「ぼそぼそ喋られても聞こえないんだけど?」
長身の男子が舌打ちしながら言った。
「何か文句言ってんじゃね?」
「変態じゃん」別の女子が囃し立てる。「こんなの教室で描いて、セクハラじゃん。セクハラ、セクハラ!」
「こういう萌えってやつ? キモイから消えてほしいんだけど」
連呼は机に視線を落とした。集団で責め立てられ、ただ心を殺して耐え忍ぶしかなかった。
中心の女子はノートをぺらぺらとめくりながら、「キモイ、キモイ」と繰り返した。
自分が愛情を込めて描いてきたイラストを罵倒され、使い古しの雑巾のように惨めな気分を味わった。胸が苦しく、心臓が締めつけられる。
「おーい、無視ですかー」
男子が笑いながら机に手のひらを叩きつけた。破裂音が鳴り、クラスメイトの数人が反応した。だが、所詮は他人事なので、すぐ仲間内の会話に戻ってしまった。
連呼は男子をちらっと見やった。
なぜ一方的に絡んできて、何か反応することを強いるのだろう。一方的な価値観による誹謗中傷を浴び、苦しい、つらい、死にたい──。他に何を言えばいいのか。
中心の女子がうんざりした顔で吐き捨てた。
「こういうの、吐き気するわあ。あー、気持ち悪い!」
彼女は先月、国語の作文が称賛され、最優秀賞を貰っていた。タイトルは『SNSで人を傷つける人たち』だ。SNSでは平気で他者を攻撃する人たちがあふれている、中傷は人の心を殺す、という内容で、その加害性を批判した作文だった。
「……これだっていじめじゃないの?」
連呼は消え入りそうな声で言った。質問というよりは、正直な想いが口から漏れた。
「は?」中心の女子が不愉快そうに顔を歪めた。「何か言った?」
「いじめ……」
彼女は鼻孔を膨らませた。
「いじめって言った? もしかして被害者ぶってんの? あたしたちは絵の感想を正直に言ってるだけじゃん。言論の自由って知らないの?」
「いや、でも──」
中心の女子が別のページを晒した。チアリーダーのように飛び跳ねるポーズの制服姿の女の子が描いてある。スカートがふわっと広がっている。
「うわ、これ見て! 太もも丸出し!」
「パンツ見えそ」
「胸でかっ! キモ。超性的じゃん」
キャラクターの体型は、コスプレで活躍している実在の女性をモデルにしている。彼女の体型を間接的に中傷されている気がして、胸が痛かった。
「リアルで相手にされないからって、こんな絵を描いてんの?」
「マジ最低! 女子をそんな目で見んなよ!」
連呼はおどおどと反論した。
「スカートは……キャラクターの動きを分かりやすく表現するための一般的なテクニックで……だから……」
「言いわけすんなよ。キモ! 太もも描きたかったんだろ、絶対。丸分かりだから」
「そうそう。じゃなきゃ、こんな構図、最初から選ばねえだろ」
表現の一つ一つの揚げ足を取って、性的に辱められている気がした。
「……好きで絵を描いちゃ駄目なの?」
連呼はつぶやくように言うと、彼女たちを見上げ、すぐまた視線を落とした。
「見たくもない絵を見せられて、被害者はこっちなんだけど?」
「……勝手に見たくせに」
「公の場で描いてんだから、目に入るでしょ。部屋に籠って一人で描いとけよ」
「だからって、キモイなんて、いじめだよ……」
「キモイってのは個人の感想でーす」別の女子が言った。「受け入れてくださーい」
「こんな絵をSNSに上げたら、これくらいのキツイ感想、大勢からぶつけられるよ。うちら、ツイッターより優しいと思うけど?」
連呼は太ももの上で拳を握り締めた。ツイッターなどにアニメ的な絵を嫌悪する人々がいることは知っている。
去年、ライトノベルの表紙を描いている女性イラストレーターの絵が運悪く目をつけられ、『性的な描き方をしている』と標的になった。彼女がツイッターで大勢から誹謗中傷され、精神を病んでアカウントを削除してしまったときはショックだった。あまりの罵詈雑言に自分が攻撃されているように思え、胸が苦しくなった。
男子の一人がゲラゲラと笑った。
「キモイ絵をキモイって言って何が悪いわけ?」
言葉が──苦しい。浴びせられる言葉が。
心臓は激しく打ち、胃は切り傷をつけられたかのように痛む。額からは脂汗が滲み出ていた。
連呼は下唇を噛み、彼女たちを見つめ返した。
「……何その顔」中心の女子がノートを高々と晒し上げ、クラスメイトたちに見せびらかした。「ねえ! みんなも気持ち悪いって思うよね、こういうの」
数人が顔を見合わせた。
「ね? キモイよね?」
彼女に重ねて訊かれ、数人が同調した。そうしなければ自分たちに矛先が向くと考えているからか、誰かを糾弾すれば自分が立派な善人だと感じられるからか、今まで傍観者だったクラスメイトたちが口々に罵倒しはじめた。
「うん、正直嫌だよね」
「私も不快かな、そういうの」
「キショイ。オエー」
寄ってたかって中傷の言葉を浴びせかけられるたび、心がえぐり取られていく。
「ほらね」彼女があざ笑った。「みんなそう思ってんの。理解した?」
愛情を込めて、自分の〝好き〟を詰め込んだ全力の絵なのに──。
それをキモイと中傷されることは、自分の人格を中傷されるのと同じだ。クラスメイトたちが吐きかける言葉に心は傷だらけになり、血を流していた。
なぜ平然とそんなひどい言葉をぶつけることができるのか。可愛い女の子が登場する優しい物語が好きで、優しい世界に浸っていたいと思うことは、そんなに悪いことなのか。なぜ土足で踏み込んできて、靴の裏で人格を踏みにじってくるのか。
理解できなかったし、理解したくもなかった。
アニメに携わるイラストレーターになるのが夢で、絵を描いているだけなのに、なぜ誹謗中傷されなければいけないのか。
自分にとって──おそらく創作者の誰でも──、生み出した作品は、魂そのもので、想いの全てが込められている。人が精いっぱいお洒落し、個性を表現した服装を笑われるのと同じで、自分そのものを全否定された気になる。
元々、彼女の母親はPTAの役員で、学校の図書室にライトノベルが並んでいることを問題視し、『低俗』で『不健全』だから置くべきではない、と主張していた。「素晴らしい本というのは、こういう気持ち悪いアニメ絵が表紙になっていないものを言うんです」とまくし立てていたという。
日ごろからそんな母親の姿を目にしているのだから、彼女がアニメ絵を嫌悪しているのは当然なのかもしれなかった。あるいは母親にそう教育されているのか。彼女は母親の価値観を受け継いでいるのだ。
だからこうしていじめられる。女の子の絵を描いているだけで。
彼女たちに目をつけられたきっかけは──〝統一連呼〟が起こした事件だった。
──犯罪者予備軍。
犯人の〝統一連呼〟とは年齢も違うのに、同姓同名というだけで、将来同じような犯罪を起こす、と決めつけられた。可愛い女の子が登場するアニメが好き、という話を根拠にして。
「目に入ったら不快だし、存在ごと消えてほしいんだけど」
「あー、キモイ! 存在しないでほしい」女子は思い出したように付け加えた。「あ、絵のことね、これ。絵を見た個人の感想だから」
自分はそこまで憎悪を向けられることをしたのか。ただ好きな絵を描いていただけなのに──。
「またオタクが何かやったの?」
唐突に集団に割り込んできた声──。
顔を向けると、隣のクラス──一年四組の男子生徒が立っていた。浅黒く日焼けした肌で、清潔そうなスポーツ刈りだ。友達に会うために頻繁にやって来る。
女子の一人がノートを指差した。
「こんなキモイ絵を描いてた」
彼は「へえ?」と興味津々の顔で覗き込み、「うわあ……」とドン引きした声を発した。
「俺、こういう萌え絵ってやつ? 受け入れられないんだよな、生理的に。世の中にはさ、健全な作品が山ほどあるじゃん。そういう名作に接するべきだよ」
女子の一人が媚びたように彼を持ち上げた。
「さすが統一君だよね。こっちとは大違い」
そう、隣のクラスからやって来たのは、同じ統一連呼だった。決してイケメンではないものの、身長が高く、〝コミュ力〟があり、女子とも仲が良く、勉強もできる。そして──オタクではない。
上位互換の統一連呼──。
同じ学年に二人の統一連呼がいる。
〝統一連呼〟が罪を犯しても、決して同一視されることがなく、将来、同じ犯罪をすると疑われることもない、道徳意識が高い統一連呼。
同じ名前なのにどうしてこうも違うのか。
「二次元で満足できずに性犯罪とか、勘弁な。これ以上、統一連呼が罪を犯したら、俺の名が穢れるからさ」
女子二人が「そうそう」と同調する。
「迷惑だよね、マジ」
「そういえばさ──」中心の女子が急に話を変えた。「統一君、ボランティアはじめたって聞いたけど」
「自主的な美化委員みたいなもんだけどさ。綺麗な学校のほうがみんな嬉しいじゃん」
女子たちが尊敬の眼差しを向ける。
「さすが!」
「萌え絵とか描いてるオタクのほうとは大違いだよね」
中心の女子が連呼を侮蔑の表情で睨みつけた。
「あんたも学校や社会に貢献すれば?」
連呼は統一連呼を見た。
「ぼ、僕は──」
「お前もさ、せめてスポーツでもしろよ」統一連呼が言った。「体を鍛えないから、そんなひょろっちいんだよ」
女子が言った。
「統一君、スポーツ得意だもんね。球技大会のバスケ、恰好良かったよ」
「キモイ絵を描いてるほうとは大違い」
統一連呼に見下されるたび、嫌でも比較され、〝嫌われ者のほうの統一連呼〟として罵倒される。
統一連呼は彼女からノートを受け取り、ぱらぱらとページをめくった。ふーん、と鼻で笑い、机を叩くようにして置いた。
「女の子が嫌がる趣味、持たないほうがいいよ。自分が悪いんだからさ。反省して改めろよな。お前の絵で傷ついた彼女たちには批判する権利があるんだよ」
女子たちが「マジそれな!」と同意の声を上げた。
「統一君はいいこと言うよね」
「女の子の気持ちを分かってる!」
「私たち傷ついてるんでーす。かわいそー」
「自分の非を自覚してない奴とは違うよね」
──正しい統一連呼と、間違っている統一連呼。
構図は明白だった。それぞれの役割はもう決まってしまっていて、何があっても覆せないのだ。
「あたしさ、小学生の妹がいるから心配!」中心の女子がわざとらしく怯えた口調で言った。「雑誌に写真が載るくらい可愛いし、目をつけられたらどうしよ」
統一連呼が「へえ」と反応した。「そんなに可愛いの?」
「見る?」
彼女は返事を聞く前にスマートフォンを取り出した。指で操作していく。
「──これ」
彼女は統一連呼にスマートフォンの画面を見せた。
「……ああ、これは近づけちゃヤバイね」統一連呼が言った。「こっちの統一連呼は同じような事件、起こすかもしんないしさ」
「だよね。こっちはやりそうだよね」
勝手に犯罪者予備軍として扱われ、惨めだった。
「……やらないよ。偏見だよ」
中心の女子が鼻で笑った。
「証拠あんの?」
「証拠って言われても──やんないとしか言えないよ」
「妹を危険に近づけないことが悪いわけ? それとも、あんたから妹を遠ざけたらそんなに困る理由でもあんの?」
「そういう意味じゃ──」
「じゃあ、別に問題ないよねー」
小さな女の子を襲う性犯罪者呼ばわりに抗議していたのに、もう話がすり替わっていた。
だが、集団の圧力の前には黙って頭を垂れるしかなかった。一言でも言い返せば、数倍になって暴言が浴びせられるのだ。まるでツイッター社会のように――。
連呼は屈辱を噛み締め続けた。
偶然それを見つけたとき、統一連呼は何だろうと思った。
『〝統一連呼〟同姓同名被害者の会』──。
これは一体何なのか。犠牲者が一人の事件で『被害者の会』とはどういうことなのか。しかも、同姓同名とは?
サイトにアクセスし、趣旨を読んで合点がいった。〝統一連呼〟と同姓同名であることで、何らかの不利益を受けた者たちが体験談を告白し合っているようだ。
しかも、今週の土曜日に都内で初の〝オフ会〟が企画されていた。〝統一連呼〟と同姓同名の人間たちが実際に一堂に会し、苦しみや悩みを語り合うのだ。
同じ統一連呼たち──。
連呼は過去の苦悩を思い返した。罪を犯した〝統一連呼〟のせいで自分がどれほど思い悩んだか。あの統一連呼とは違う、と周りにアピールするために、素顔を虚飾で覆い隠すようになった。はた目には恵まれていると思われていただろうが、心は死んでいた。
〝統一連呼〟との差をアピールすることにただ必死だった。
俺はあんな奴とは違う。
断じて違う。
──そう、名前で同一視されたくなかった。そこから人生が狂いはじめた。
そして、今、あのときの自分と同じように悩んでいる統一連呼が何人もいる。
同じ名前を持つ者たちに興味があった。
彼らなら分かってくれるかもしれない。
連呼はサイトで参加を表明すると、土曜日を待ち、記載されていた場所へ向かった。渋谷駅から徒歩十分だ。キャパシティ二十名のイベント会場をレンタルしてあるという。
会場に着くと、中に入った。案内看板を見る。
『異業種交流会』
サイトの説明によると、表沙汰にできない名前なので、『異業種交流会』の名目で会場を借りたという。レンタルされている部屋は一番奥にあった。
連呼はドアを開けた。複数の丸テーブルと椅子が並んでいる部屋だ。壁一面に白いブリックが貼られ、窓から射し込む陽光を照り返している。
奥には数人の男が立っていた。
連呼は部屋に進み入ると、集団に近づき、「どうも」と声をかけた。
「どうも……」
空気は重く、人と人のあいだに緊張が横たわっている。当然だ。和気あいあいと話を楽しむ間柄ではないのだ。
連呼は面子を眺め回した。自分の他には八人。そのうち五人は見たところ同年代だ。細目の青年、団子っ鼻が特徴の青年、中肉中背の青年、長身痩躯の青年、茶髪の青年──。明らかに年代が違うのは、小柄な中学生くらいの少年と、眼鏡を掛けた中年男、野球帽の中年男の三人だ。
言葉も交わさず、居心地の悪い時間がしばらく続いた。五分後、スポーツマン風の青年がやって来て、計十人になった。
長身痩躯の青年が腕時計を確認し、全員を一瞥した。
「ええー、一応、時刻になりましたので、そろそろはじめましょうか。とりあえず、自己紹介を──」彼は笑みをこぼした。「あっ、みんな統一連呼か」
場の空気を和ませるためのジョークだったのだろう。だが、全員が漏らしたのは乾いた苦笑だけだった。
長身痩躯の統一連呼は、はは、と笑うと、気まずそうに笑みを消した。
「……全員が統一連呼だって思うと、自分の分身に出会ったような、奇妙な感じがしますね。じゃあ、名前以外の自己紹介をしましょうか。たとえば、職業とか、趣味とか、まあ、何か。お互いのことが何も分からないと、区別もしにくいですし……」
数人が黙ってうなずく。
「思えば、名前ってのは人の区別のためには大事なんですけど、同姓同名だと、無用の長物で、何の役にも立たないっていう。俺はこうなって初めて名前の曖昧さというものを思い知らされました」
連呼は頭を回転させると、提案した。
「自己紹介はあなたから右回りにしていきましょう」
長身痩躯の統一連呼は少し考え、「そうしましょうか」と答えた。小豆色のニットセーターに濃紺のジーンズだ。運動靴を履いている。一番ラフな恰好だった。
「ええー、では、『〝統一連呼〟同姓同名被害者の会』を作った俺から。俺は──恥ずかしながら今は無職です。ブラックな会社に耐えきれず、転職しようとしたんですが、コロナの一言で採用が取り消されてしまって。名前のせいだと思っています。それで被害を共有したくて、サイトを開設しました」
長身痩躯の──主催者の統一連呼が語り終えると、茶髪の統一連呼が拍手した。手を叩いたのは彼だけで、静寂の中に空々しい音が響いた。
彼は周りを見回し、「すみません……」と頭を下げた。
「……次は僕が」
団子っ鼻の統一連呼が言った。顔にはそばかすが散っている。赤と黒のチェック柄のシャツの上に、黒のダウンジャケットを羽織っていた。もっさりしていて、冴えない外見だ。
「小さな会社で営業職をしています。仕事柄、初対面の相手に名刺を渡す機会が多いんですが、手渡したとたん、『え?』って顔をされることが嫌です」
「ああ、それは嫌ですよね」
主催者の統一連呼が同情心たっぷりに共感を示した。
「〝統一連呼〟が世に出てきてクローズアップされたせいで、本人じゃないかって疑われるんです。でも、直接は訊きにくいんですよね。『愛美ちゃん殺害事件』を連想したのははっきり分かるのに、相手は何かを言うわけでもなく、『あ、よろしくお願いします』って、大人の対応をするんです。それがまた鬱陶しくて」
「なぜですか?」
「余計な気を遣わず、もっと露骨な反応を見せてくれよ、って思います。あるいは、直接訊くか。そうすれば、『あれは同姓同名の別人です』って否定できるのに──」
「疑いの目は容赦ないですよね。そういうの、俺らは敏感に感じ取っちゃいますから」
沈鬱な空気が蔓延した。
次に茶髪の統一連呼が口を開いた。腰丈の黒いチェスターコートにスキニージーンズ──。ほっそりとした体形だ。
「一応、学生です。名前は正直、気まずいです。自己紹介した瞬間、空気がピリッとするんで。だから自分からネタにしてきたんです。女の子は殺してないから安心してねー、って、笑いながら。でも、あるとき、初対面の女性からマジギレされて……」
「マジギレ?」
主催者の統一連呼が訊いた。
「不謹慎だって。『女の子が殺されてるのを茶化すなんて最低。全然笑えないんだけど?』って。『遺族が聞いたらどんなに傷つくか分からないの? 無自覚な加害性って最悪』って」
「あなたこそ傷ついたでしょうね」
「はい」茶髪の統一連呼は、パーマがかかった毛先を指で弄んだ。「俺、こんなチャラい見た目してますけど、別に不真面目じゃないし……。ただ、自分からネタとして消化しなきゃ、名前で同一視されるのに耐えられなかったんです。顔は笑っていても、心は傷だらけで、苦しかったんです。だって、本当ならそんな自虐的な台詞、言う必要ないじゃないですか。それなのに、自虐で精神を守ったとたん、まるで殺人を犯した犯人のように非難されて、人格否定の言葉を浴びせられて……。一瞬で嫌われ者です。周りから人が去ってしまいました」
彼は苦悩に彩られた顔で苦しみを吐き出した。
細目の統一連呼が舌打ち交じりに言った。
「愚痴ってもしゃあないし、俺は話すことはあんまりないな」
彼はオールバックで、ツイードのジャケットにコートを重ねていた。ズボンも革靴も黒一色だ。恰好がモノトーンなので、近寄りがたさが醸し出されている。
他の全員が彼に困惑の眼差しを向けた。最初から足並みを乱された気がしているのだろう。
「でも──」中肉中背の統一連呼が言った。「言いたいことはあるんですよ、やっぱり。だから集まってるんです」
「じゃあ、あんたは話せば?」
「……ええ、話しますよ」
ラグビー選手のような体格だ。少しでも細く見せようとしているのか、テーラードジャケットを着ている。だが、サイズがいまいち合っていないらしく、二の腕の部分がパンパンになっている。
「僕は埼玉から来ました。地元の中小企業に入社して一年目なんですが、忘年会で名前をいじられて──。そこからは犯人ネタで笑いの種にされるようになりました。取引先に紹介されるときも、『こいつの名前、何だと思います?』ってネタにされて、『ヒントは有名人と同姓同名なんですよ』って。統一連呼の名前を出した後の相手の反応は様々で、ドン引きされたり、同情されたり、興味津々で食いつかれたり──。嫌な思いしかしていません」
次に自己紹介したのは、眼鏡の統一連呼だ。後ろに撫でつけたロマンスグレーの髪、青白く神経質そうな顔──。
「私は肩書きとしては研究者です。医学の分野で研究をしています。不幸中の幸いか、私は年齢も五十八歳で、殺人を犯した統一連呼とは重なる部分が少なく、みなさんのような不快な思いはあまりしていません。ただ、それでも殺人犯と同姓同名というのは、やはり気持ちがいいものではありません。今日参加しましたのは、他の同姓同名の方の話に興味があったからです。お気を悪くされたら申しわけありません」
「いえ」主催者の統一連呼が言った。「統一連呼なら誰でも参加する権利がありますから。むしろ、平穏な生活を送れている方の存在は希望になります」
「次は──僕ですね」
スポーツマン風の統一連呼が手を挙げた。彫り込んだ彫刻のように端整な風貌だが、ほほ笑むと、目が優しげに細まる。人に安心感を与える表情だ。
「僕は個人で家庭教師をしています。実年齢より下に見られるんですけど、実際は三十五歳です。年齢的に僕も殺人犯の統一連呼と同一視されることはあまりなくて、ほっとしています。ただ、それでも親御さんからは警戒されてしまうみたいで、書類の名前で忌避されている感じはあります」
他の面子から促されて自己紹介したのは、少年の統一連呼だった。幼い顔立ちは、小学生にも見える。
「あの……僕は中一です。クラスで犯罪者みたいに言われて、いじめられてます。ネットが僕の居場所で、オンラインゲームとか、よくしています。ネットを見てて、この『被害者の会』の存在を知って、オフ会が山手線で一駅の場所だったので、参加しました」
中学生の統一連呼──か。『〝統一連呼〟同姓同名被害者の会』の最年少だ。
「私は音楽関係の仕事をしています」
続けて野球帽の統一連呼が挨拶した。年齢は四十歳前後だろうか。無精髭を生やしている。分厚い顎に不似合いな薄い唇だ。喋ると、ヤニで黄ばんだ歯が覗く。
主催者の統一連呼が言った。
「今回のオフ会は彼の提案だったんです。顔が見えないネットの中で話すより、実際に会って話したほうが本音も喋りやすいし、連帯感も生まれるんじゃないか、って言われて」
「オフ会が実現してよかったと思います。私もみなさんと同じような体験をしています。もちろん、顔を合わせれば犯人の〝統一連呼〟とは年齢が違いすぎるんで、疑われたりはしないんですが、名前しか見えない場所だと色んな不利益がありまして。そういうわけで〝同志〟の話を聞きたくて参加しました。よろしくお願いします」
数人が「よろしくお願いします」と応じた。
「最後は──」
主催者の統一連呼の目が連呼に向けられた。
「俺、ですね。俺は──高校時代にサッカー部で活躍してました。プロを夢見ていたんですが、〝統一連呼〟が事件を起こしたせいで、同級生からも変な目で見られて、チームメイトからも仲間外れにされるように……っていうか、フリーなのにパスを出してもらえなかったりして、やってらんねえな、って」
「ひどいですね」
「俺はあの〝統一連呼〟じゃないって、何度言っても無駄で、世の中に失望して今に至ります」
〝統一連呼〟が事件さえ起こさなければ──。
高校時代からそう思っているのは、紛れもない本音だ。人生はそんな程度のことで歪んでいく。
団子っ鼻の統一連呼が苦悩を噛み締めるように言った。
「名前が同じでも別人なのに……。当たり前のことなのに、論理じゃないんですよね、そこにあるのは。感情が先行して、同一視するんです、みんな。何で僕らが苦しまなきゃいけないのか。悪いのは誰なのか。僕たちは誰を責めればいいのか」
全員がうなだれ、唇を噛んで黙り込んだ。それぞれの頭の中には、自分が世間から受けてきた仕打ちが蘇っているのだろう。
今日、同じ統一連呼の体験談を聞き、分かったことがある。
──同姓同名の人間の罪は同姓同名の人間が受け継ぐ。
「……さて」主催者の統一連呼が面々を見回した。「自己紹介も終わりましたし、後はご歓談を──という感じでしょうか。飲み物はご自由にどうぞ」
テーブルには二リットルのペットボトルのお茶が数本と、紙コップが十数個、置かれていた。
連呼は紙コップにお茶を注ぐと、口をつけながら、同じ統一連呼たちの会話に交ざった。
「──本当、迷惑なんですよね」茶髪の統一連呼が嘆息した。「そもそも、俺が名前をネタにしたのだって、偏見や疑いの眼差しに耐えきれなくなって、自分の精神を守るためなんですよ。その内心の機微のようなものを読み取ってくれる人間は、不謹慎とか言って俺を責めずに、同情してくれて。だから俺も、軽い調子で不幸を笑い飛ばせたんです」
団子っ鼻の統一連呼がうなずいた。
「気持ちは分かります」
「でも、同じようなノリで自虐したとたん、初対面の女性から不謹慎だって責められて、俺は一瞬で悪役です。今まで俺の自虐に同情して笑ってくれてた友人たちも、彼女に同調して急に俺を批判しはじめて。俺の味方をしたら、俺と同類の、倫理観が欠如した最低人間と見なされる、って空気があったんですよね」
「最近はそういう〝倫理の同調圧力〟がありますよね。倫理的に許されないって言われたら、何も言い返せないですし。後は一方的に悪役にされて殴られるだけ……」
「僕は逆でしたねえ」中肉中背の統一連呼が口を挟んだ。「僕はネタにされることが苦痛で苦痛で仕方ありませんでした」
茶髪の統一連呼が答える。
「俺は自分からそうしていたので。俺もあなたの立場なら、嫌な気持ちになったと思います」
研究者の統一連呼が落ち着いた口調で言った。
「心の傷は他人からは見えないですからね。明確な悪意だけじゃなく、優しさが人を傷つけたり、善意が人を傷つけたり──。正しさも無自覚な加害になることがある、って、人は想像もしないんですよ」
含蓄がある彼の言葉は、他の統一連呼の共感を得たらしく、数人がうなずいた。
主催者の統一連呼が連呼に水を向けた。
「昔、あなたの記事を見たことがあります」
「え?」
連呼は突然の話題に戸惑った。
「高校サッカーでハットトリックして、インタビューに答えている記事です」
「あ、ああ……」連呼は記憶を探った。「たしか……全国大会出場に向けた意気込みを語った気がします」
「でも、そんな記事も全部〝統一連呼〟に押し流されてしまいましたね。今じゃ、きっと検索してももう見つけられないですよね。俺ら全員が〝統一連呼〟に人生を壊されたんです」
全員が犠牲者──。
そう、はじまりは全て〝統一連呼〟なのだ。同姓同名の人間は、全員が鎖で繋がっているようなものだ。接点がなくても、全くの無関係ではいられない。
それからも各々が自分の体験談を吐き出し、慰め合ったり、怒りを共有したりした。『会』には特に目標などはなく、同じ悩みを持つ者同士が愚痴を言い合う交流会のようだった。
流れを変えたのは、野球帽の統一連呼の一言だった。
「みなさんはこれからどうするつもりですか?」
全員が「え?」と顔を向けた。
「いえね、こんなふうに傷を舐め合っても、事態は何も変わらないわけじゃないですか。せっかく集まっているんで、今後の話とか、対策とか、そういう話をするべきじゃないか、って」
細目の統一連呼が鼻で笑った。
「対策って──俺らに非はないんだから、何もしようがねえじゃん。世間は〝統一連呼〟を憎んでんだから」
「それでも、考えることには意味があると思います」
「無理無理。俺らは嫌われもんだよ。改名でもしないかぎり、俺らのイメージは変わんねえよ」
主催者の統一連呼が腕組みしながらうなった。
「改名──かあ」
茶髪の統一連呼が首を横に振った。
「無理ですよ。俺も真剣に考えたことがあるんですけど、そう簡単じゃないんです。改名には家裁への申し立てが必要なんですが、〝正当な理由〟がないと認められないんです」
彼によると、名の変更許可申立書には以下の理由が記載されているという。
『奇妙な名である』『むずかしくて正確に読まれない』『同姓同名者がいて不便である』『異性とまぎらわしい』『外国人とまぎらわしい』『神官・僧侶となった(やめた)』『通称として永年使用した』『その他』
「同姓同名の人間がいて不便──というか、被害に遭っている俺らなら可能性はありますかね」
「犯罪者と同姓同名っていうのは、改名の理由にはなるんですが、それでも、社会生活上、重大な支障がないと、難しいんです。周りの人間に偏見の目で見られるとか、その程度じゃ、なかなか……」
「じゃあ──」団子っ鼻の統一連呼が手を挙げた。「僕の状況なら可能性はあるんじゃないですか。近所の人からあの〝統一連呼〟と間違われて、そのせいか、最近、郵便受けにビラが放り込まれてるんです。『犯罪者は出ていけ!』って赤いマジックで書かれたビラが」
「ああ、それなら認められるかもしれないですね」
「本気で考えてみようかなあ……」
「そうですね。そうすれば、解放されますもんね」
「まあ……」
「何だか気が乗らない感じですね」
「こんなことになるまでは、愛着がある名前だったんで……」団子っ鼻の統一連呼は目を伏せ気味にした。「実際に名前を変えるって想像したら、何だか自分を消してしまうような、自分が自分でなくなってしまうような……言葉にしにくいんですけど、不安を感じてしまって……」
「分かる気がします」茶髪の統一連呼が言った。「同姓同名の人間がこんなに大勢存在していて、名前ってものがこんなに不確かで、個人を意味しないって思い知っているのに、それでも、統一連呼はたしかに自分なんです」
「そうなんです」
「統一連呼じゃなくなったら、それはもう自分じゃないっていうか……」
沈黙が降りてくる。
それを破ったのは野球帽の統一連呼だった。
「みなさんに訊きたいんですけど……〝統一連呼〟のことはどう思いますか? 少年刑務所を出て、遺族に襲われました」
主催者の統一連呼が渋面になった。
「……正直、今は遺族に怒りを感じてしまう自分がいます。あんな復讐事件を起こさなかったら、〝統一連呼〟は再燃しなかったのに──って」
「それは──」
「分かってます。分かってますよ! 悪いのは〝統一連呼〟ですよ、そりゃ。でも、理屈じゃなく、そう感じてしまうものは仕方ないじゃないですか! 〝統一連呼〟は罪を償ったんです!」
煮えたぎる感情が噴きこぼれていた。
野球帽の統一連呼は一呼吸置くと、問いかけた。
「……〝統一連呼〟は本当に罪を償ったんでしょうか? たった七年で世に戻ってきて」
「〝統一連呼〟が反省していようとしていまいと、俺らの人生には何の関係もないじゃないですか」
「……すみません、変なこと言っちゃって」
主催者の統一連呼は「いえ……」と視線を逃がした。「俺のほうこそ、感情的になってしまって」
『〝統一連呼〟同姓同名被害者の会』は感情が入り乱れ、対立し、ぶつかり合う場でもあった。
登場人物全員、
同姓同名。
ベストセラー『闇に香る嘘』
の著者が挑む、
前代未聞、
大胆不敵ミステリ。
待望の文庫化!
書き下ろし短編「もうひとりの同姓同名」収録
大山正紀はプロサッカー選手を目指す高校生。いつかスタジアムに自分の名が轟くのを夢見て
練習に励んでいた。そんな中、日本中が悲しみと怒りに駆られた女児惨殺事件の犯人が捕まった。
週刊誌が暴露した実名は「大山正紀」ーー。報道後、不幸にも殺人犯と同姓同名となってしまった
“名もなき”大山正紀たちの人生が狂い始める。
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