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「酔いどれ小籐次留書」シリーズが誕生したのは二〇〇四年。その頃の世情は二○○七年問題で揺れていました。戦後ベビーブームで誕生した団塊の世代が二○○七年以降、一斉に定年退職を迎える時期を目前にしてい た。日本の経済成長を支えた世代が中枢から一気に抜けるのですから、国も企業も対策に追われていました。
そして、まだ働けるのに職場を追われるはめになる人たちには、これからどう生きていくべきかという命題 が、否応なく突きつけられました。
私は、時代小説を書くとき、常に「今」を意識しています。「酔いどれ小籐次留書」シリーズを始めるに当たっても、そんな境遇にある人たちを勇気づけられるような物語を描いてみたい、そういう思いがありました。これまで書いてきた他の時代小説シリーズの主人公と違って、小籐次は醜男で背も低い。『御鑓拝借』を成し遂げた折の四十九歳という年齢は、人生五十年という江戸期ではほとんど晩年に近い。そうした設定にしたのも、逆境のなかで生きる男を象徴的に描きたいという気持ちが、どこかで働いていたのかもしれません。
主君の恥辱を雪ぐため独り闘うことを決意し、脱藩した小籐次は、まさにリストラされたサラリーマンみたいなもの。まったく経験したことのない市井の暮らしを全うするために、食べるための努力を懸命に続ける。そんな小籐次を支えているのは、父親から剣技以上に厳しく仕込まれた研ぎの技、竹細工の技。さらには、どんなに安い手間賃の仕事でも丁寧にこなし、最大限の努力を注ぎ込む愚直なまでの誠実さです。
藩(組織)に帰属していれば、先例や規則に縛られ、自由闊達に生きることなどできませんが、彼はその技倆と人間性を活かして市井に溶け込み、人情に触れ、周囲の人々の手を借りながら自分らしい生き方を見つけてゆく。それは組織を離れたからこそ得られた貴重な人生ですし、たとえ会社から離れても、歳をとっても、人間の生き方なんていくらでもあるという、ひとつの証しでもあると思うのです。
それを「男のロマン」と言ってしまうと大げさかもしれませんが、北村おりょうの存在にしてもそう。才色兼備の彼女は、映画『男はつらいよ』でいえば寅さんのマドンナに当たりますが、小籐次とおりょうが惹かれ合うなんて現実にはあり得ない。けれども、男はいくつになっても自分の想いを託せる存在がほしいものだし、年齢や容姿、身分を超えて惹かれ合う二人の姿は、世知辛い社会を生きる私たちにとって、微かな希望ではありませんか。
私にはまた、腕一本で世の中を渡ってゆく職人への憧憬の念が強くあります。作中にはさまざまな職人が登場し、小籐次と交流しますが、私自身、そういった場面を描くのがとても楽しい。
読者の皆様には、小籐次の剣客としての活躍ぶりはもちろん、そんな生活者としての生き方も楽しんでいただければ、作者としてこれに優る喜びはありません。 (談)
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